My Biography


My Biography(3)__入学許可証が届かない・・ フ〜〜ッ!・・(2013年9月18日、水曜日)

■両親を説得しなければ・・

「どうしたんだろう・・ケルンから入学許可証が届かないんだよ・・ダメだったのかな〜・・」

それは、カーラと話すなかで出てきた弱音だった。

入学願書の作成を手伝ってもらって以来、時間を見つけては、鎌倉の長谷にあるカーラのドイツレストランを尋ねるようになっていた。

「アンタ・・そんな弱気でどうするの!」

カーラは、例によってハッパをかけてくれるけれど、そりゃ、弱気にもなるよ。何せ、5月(1976年)にはドイツへ渡ろうと計画していたのに、武蔵工業大学を卒業した後になっても、ケルン総合大学から、まったく音沙汰がないのだから。

大学の卒業式だけれど、仕事(陸送)とサッカーのコーチングスクールに忙殺されていたこともあって、出席できなかった。というか、はじめから出席するつもりはなかった。

両親からは、「お世話になった大学なのに、それは失礼だろ・・」などと、ナジられたものだ。

そうそう、両親だけれど、私のドイツ留学に反対だったのは言うまでもないよね。

他の学生と同じように就職する方が、生活を安定させられるだろうし、夢を実現するのは、それからだって遅くないでしょ・・ってなもんだ。

それでも、私の性格を誰よりもよく理解していた彼らだから、初めての海外旅行(大学二年の夏休みに訪れたフランスとドイツ)から帰国した後に宣言した「ドイツ留学計画」にも、声高に反対したのは最初の一ヶ月までだった。

もちろん、留学費用は自分で稼ぐし、もしドイツでモノにならなくても、その後は自分で何とかするから、迷惑はかけない・・と、確信をもって説得したことは言うまでもない(この件については、前回コラムを参照して下さいネ)。

両親にしても、学生のアルバイトにしては異常なほどのカネを稼いでいるという実績もあったから(!?)、「まあ、仕方ない・・あの子は、言い出したら聞かないから・・」と、徐々に諦めムードに入っていった。

実はそこに、父親が、果たせなかった自分の夢を、次男である私に託したという側面もあったのだが、私がそのことを知ったのは、父親の晩年になってからだった。

■父親の夢を聞かされて・・

その夢とは、社会のどんな組織にも属さずに、今風に言えばフリーランスのライターとして、社会的ステータスを築く・・というものだった。

当時の父親は、東京商大(現在の一橋大学)を卒業し、財閥系の総合資源開発会社のエリートサラリーマンとして、ある程度の地位に就いていた。

でも心のなかでは、文筆家になる夢をあたためつづけていたのだ。

サラリーマンをやりながら書きためた小説で、新聞社が主催したコンテストで賞を取ったこともある。でも結局は、家族のことを考えて(!?)、会社を辞めてまで文筆業に専念するという「リスキーな生活」に足を踏み入れることには踏ん切りがつかなかった。

社会的なアウトサイダーである「フリーランサー」として生きようと決めたとき、安定を志向したら、どんどん成功から遠ざかってしまうものだ。

もちろん、「成功とは何か・・」という議論はあるけれど、ここでは、プロの文章家として地歩を築き、それなりの安定した収入で家族を養えるようになること・・と、定義しようじゃないか。

ただし、その安定した収入は、あくまでも結果として後から付いてくるものであり、最初から「それ」を追い求め「過ぎ」たら、確実に「守りの姿勢」に陥ってしまうだろう。

それでは、クリエイティブな仕事を、人の共感と感動を呼び起こすまでに「深める」ことなど望むべくもない。

既に家庭を築いていた父親には、そんな、安定した生活と、創造的な仕事の「相克」が見えていた。だからこそ踏ん切りをつけられなかったのだ。

そんな自分の次男が、ドイツへサッカー留学し、ゆくゆくは、サッカーに関わる分野で、何らかの「プロ」として生活しようという夢に突き進んでいる。

このハナシは、父親の晩年に直接聞いたのだが、当時の彼は、私の、夢を追いかける姿を、自分のそれと重ね合わせていたというのだ。

彼は、学生だった当時、真剣に、プロの文筆家へのステップに挑戦しようとした時期があった。ただ結局は、戦後の復興期で、まだまだ社会が安定していなかったこと、そして彼が、湯浅家のなかで期待の星だったこともあって、エリートサラリーマンの道を選ばざるを得なかった。

たしかに、その後も夢は温めつづけた。ただ、会社勤めと家庭を中心にした生活が安定してからは、その夢が、どんどんと遠のいていったというわけだ。

だからこそ、口では反対しながらも、私が、「後ろ髪を引っぱる何らかのモノ」を持たないうちに「夢」へ踏み出していくことを、心の底では応援していた・・というのである。

そのハナシを聞いたとき、父親は病床に伏していた。本人も、余命わずかであることは、薄々感じていたはずだ。

どうして、そのタイミングで、当時のことを話して聞かせたかったのだろうか。

たぶん父親は、夢をあきらめたことも含め、引きずっている「心の重荷」をさらけ出すことで、私と「何か」を共有したかったのだと思う。

たしかに、そのときほど、父親を「身近」に感じたことはなかった・・

■ケルンから入学許可証が来ない・・来ない・・

あっと・・、ケルン総合大学の入学許可証のハナシだった。

そう、いつまで待っても来ないんだよ。そのとき、本当に、ドイツまで問い合わせの電話を入れようかどうか迷ったものだ。でも・・

当時の国際電話は、海中ケーブル敷設といったインフラ整備のための「供託金」的な意味合いもあったんだろうね、とにかく目が飛び出るほど高額だった。3分間で、当時のカネで3000円ほども「ふんだくられた」ものだ。

だから、安易に国際電話など掛けられるはずがない。

たしかに最初は、カーラに電話で聞いてもらおうとも思ったけれど、彼女もレストランの切り盛りで忙しいし、電話を入れたとしても、ケルン総合大学の事務局のなかを「たらい回し」にされたら、たまったモノじゃない。

もちろん電話代については、国際電話を独占的にマネージしていた(!?)当時の「KDD」が、後から電話料金をアナウンスしてくれるから、その額を、カーラと精算すればいい。でも・・

そのとき、決断を迫られていた。そう、待つか・・、問い合わせるか・・、現地へ行ってしまうか・・

そして、入学許可証とは関係なく、とにかくドイツへ「まず」飛んでしまうことに決めた。

案ずるより産むが易(やす)し・・という「エイヤッ!」の決断。

・・入学許可証なんて来なくたっていい・・とにかく現地へ行き、そこで大学側と交渉すればいいじゃないか・・もし入学許可証と「すれ違い」でドイツへ飛んでしまったとしても、許可は下りているのだから、現地で交渉すれば問題ないはずだ・・

・・とはいっても、もし入学「不」許可という結論が出されていたら大変だ・・そうなったら就学ビザだって下りない・・

そうそう、学生ビザも、シリアスな問題だった。

前述したように、父親に保証人になったもらうためにドイツ大使館へは何度か足を運んだ。担当の方は、既にケルン総合大学から入学許可が下りているものとばかり思っていたはずだ。

「大学からの入学許可証が届いたら、すぐに学生ビザを申請してください・・そこから数週間かかるはずですから・・」

ドイツ大使館の担当の方からは、そんなことを言われていたんだよ。でも実際には、入学許可証などカゲもカタチもないという体たらくだったのだ。フ〜〜・・

ケルン総合大学からの入学許可証が届かない、就学(学生)ビザも申請できない。まさに、ナイナイ尽くしじゃないか。

それでも私は、そんな厳しい状況を、こう自分に言い聞かせることで吹っ切っていた。

・・完璧な準備などできるはずがない・・とにかくオレは「何か」にチャレンジするために出掛けていくんだ・・もし大学の入学許可が下りていなかったとしても、そのときは、ゲーテ・インスティテュートの語学コースに入学して滞在ビザを取ればいい・・

・・そのビザは「準」学生ビザだから、ゲーテの学校に通いながら、大学への入学許可にトライしつづける・・そして、もし大学から許可されたら、その「準」学生ビザを、正式な学生ビザに切り替えるのも、そう難しくないはずだ・・

そこでも、厳しい現実を突きつけられてはいたものの、チャレンジャーのマインドが萎えることはなかった・・と、思う。

いや、ちょっと違う・・かも・・

そんなカッコいいモノじゃなく、追い込まれていた(意図的に、自分自身を追い込んでいった!?)ことで、選択肢が残されていなかった・・と言った方が、そのときの状況を正確に表しているのかもしれない。

・・とにかく、やるしかないじゃないか・・今のオレには、そのオプションしか残されていないんだから・・

そして、意を決し、アエロフロート・ロシア(当時はソ連)航空の「片道キップ」を購入した。

■アッ、入学許可証が・・そして旅立ち・・

ということで、アエロフロート。

当時、「IATA」に加盟している他の航空会社では、往復チケットと片道キップの値段に、大きな差はなかった。要は、往復チケット以外は売らない(売ってあげない!?)という態度だったということだ。フンッ・・

いまのような格安航空会社(LCC)など、まだカゲもカタチもない時代。選択肢など、ないに等しかった。もちろん片道キップとはいっても、かなりの出費は覚悟しなければならない。

大学二年のときの海外(ヨーロッパ)初旅行のときもそうだったけれど、自分が稼いだカネを使うときは、ものすごく慎重になる。そりゃ、そうだ。自分で汗水ながして稼いだカネだから、1円だってムダにしたくない。

そしてハッと気付くんだよ。

小遣いも含めた自分の生活費、学費などは、すべて親がかりだったってネ。そのときは、親に感謝しながら、ムダ遣いはダメだと自分自身に言い聞かせるのだけれど、喉元過ぎれば熱さを忘れる・・で、またすぐに、そのことに気を遣わなくなってしまうんだ。

よくそれで、独立独歩なんてカッコいいこと言えたもんだ。フ〜〜ッ!?

ところで、旅行会社にカネを支払いにいったときのことだけれど、それがまとまった額だったこともあって(その額を稼ぐための膨大な労働エネルギーのことを思って!?)、再び、自分が置かれている状況を、より明確に意識したことを今でも鮮明に思い出す。

自分で稼いだカネを、自分自身がやりたいことに使う。

そのとき、ここから「自分自身で切りひらいていく本当の人生がはじまるんだ・・」という思いが、こみ上げてきたのだ。

どうなろうと、その責任は、すべて自分が取ればいい。その決断で迷惑する者など、誰もいない。

両親は心配するだろうけれど、それを気にしていたら前進できない。我々が、まったく別の世界(時代)に生きていたことは、確かな事実なのだから。

それまでは、自我が確立していないなかで、何らかの「敷かれたレール」の上をひた走ってきた・・でも、いま自分は、そのコースから外れていこうとしている・・

そのことを、強く、再認識せざるを得なかったのだ。

その「感覚」は、いまでも大切に脳内バンクにしまってある。

そして、弱気に迷ったり、自分自身に対して何らかの言い訳をするなどといった後ろ向きの心理に陥ったときに呼び起こしては、ポジティブな刺激をもらっているというわけだ。

ということで、そんな「非日常」の体感を積み重ねているうちに、どんどん出発日が迫ってくる。用意するモノは山積みだったから、それを揃える作業に忙殺され、時が経つのを忘れていた。

そして、あと数日で出発というタイミングで、唐突に、入学許可証が届いたのである。

そのときの感動は、いまでも鮮明に思い出せるね。

・・アッ、キタ〜〜ッ!・・キタッ、キタッ、ホントにキタゾッ!!・・ヤッタ〜〜ッ!!!・・

スミマセンね、単細胞的なリアクションで。でも、本当に嬉しかったんだよ。まさに、天にものぼる気持ちとは、このことだ・・なんてネ。

でもサ、次の瞬間には、急激に現実に引き戻されたんだ。

それが「許可証」なのか「不許可通知」なのか、まだ確かめてない。そして、ドッと冷や汗が吹き出した。だらしネ〜な・・ホントに・・

そして、辞書を片手に、首っ引きで内容を確認しはじめたんだよ。

書状には、ケルン総合大学の、格好いい立体スタンプが捺してある。それが、あまりにも重々しいから、ちょっと手が震えた。

そして、手紙のなかのキーワードを抜き出しては、辞書で確かめるんだ。それが入学を許可する旨の書状だと確信できるまでに30分以上もかかった。そのとき、ちょっと腰が抜けた感じになったっけ。フ〜〜ッ・・

さて、それじゃ、就学ビザはどうするの??

もちろん、今さら就学ビザの申請など、時間がないから出来るはずがない。とにかくドイツへ行ってから作業するしかないんだよ!

学生(就学)ビザは、基本的には本国で取得してから渡独すべき・・というルールは知っていたけれど、もう、こうなったら、そんなルールになんかに構っていられない。

何てったって、フライトチケットは既に買っちゃったんだよ。それに、あと数日で出発だから、スケジュール変更やチケットキャンセルのデッドラインは、とうの昔に過ぎていたんだ。

今さら、スケジュールを変更したり、チケットをキャンセルすることなんて、支払ったカネが無駄になるから出来るはずがない。

ここまで来たら、そんなことに神経やエネルギーをすり減らすなんてバカげている。とにかくドイツへ行ってから、事情を説明すれば、何とかなるさ。

大学側や、外国人留学生を担当する官庁だって、就学ビザ申請のルールに違反しているから強制的に送還する・・なんてことには、なりっこない・・たぶん・・

ということで、そんなことを自分自身に言い聞かせ、羽田空港へ向かう筆者だったのである。

フライトは、もちろん、モスクワ経由。

1970年代の、ソ連だぜ。そこで、何が待ち受けているのかなんて誰にも分からない。

でも、未知だからこそ、不安と同時に、期待や希望に胸を膨らませてもいたんだ。もちろん、「周り」に対する、ちょっとした強がりもあったんだろうけれどネ・・

(つづく)

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 重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。

 追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。

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 ところで、湯浅健二の新刊。三年ぶりに上梓した自信作です。いままで書いた戦術本の集大成ってな位置づけですかね。

 タイトルは『サッ カー戦術の仕組み』。出版は池田書店。この新刊については「こちら」をご参照ください。また、スポーツジャーナリストの二宮清純さんが、2010年5月26日付け日経新聞の夕刊 で、とても素敵な書評を載せてくれました。それは「こちら」です。また、日経の「五月の書評ランキング」でも第二位にランクされました。

 





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