My Biography
- My Biography(48)_B級ライセンスのコーチングスクール(その1)・・(USA発)・・(2015年5月23日、土曜日)
- ■サッカーを通じてドイツ語への自信が深まっていく・・
留学してから1年半が経った1977年の暮れ。
奥寺康彦という、わたし自身の学習機会としても興味深い友人を得たこともあって、ケルン体育大学も含めた日常生活が、とても充実するようになっていた。
また、サッカークラブを通して、ドイツの一般社会との接点も増えてきていたし、真の友情が芽生えてきていたウリ・ノイシェーファーとも、毎日飲み歩きながら、様々なテーマを掘り下げて語り合っていた。
まあ、飲み歩くとはいっても、普段はビール2〜3杯ほど。たまには深酒をすることもあったけれど、懐具合もあって、その機会は限られていた。
なかでもサッカークラブは、一般ドイツ人の生活と深く触れあえたという意味でも、とても意義深いモノだった。まあ当時の一般論ではあるけれど、どちらかといったら社会的なエリート階層に属する学生の感覚とは、チト違っていたのである。
私は、人類の歴史上最高の「異文化接点」であるサッカーのパワーを体感していたのだ。
私にとってそれは、「本音のぶつかり合い」になることが日常茶飯事のサッカーがもたらしてくれる価値の、まさにコノテーション(言外に含蓄される意味)と呼べるモノだった。
そう、これ以上ないほど実践的で効果的な、ドイツ語での(!)コミュニケーションをトレーニングする場。それである。
この「異文化接点」というテーマについては、新連載「The Core Column」で発表した「このコラム」を参照していただきたい。
とにかく私は、そんな「本音コミュニケーションの環境」に恵まれたことで、ドイツ語が目に見えて上達していることを実感できるようになっていったのだ。
■B級ライセンス・・
当時は、それが、もっとも初級のコーチライセンスだった。
そのライセンスを取得すれば、アマチュアレベルのチームをコーチできる。私にとっての第一関門が、そのB級ライセンスだったのだ。
そのコーチングスクールは、ドイツの各州サッカー協会が主管して開催してたのだが、当時は、私が通うケルン体育大学でサッカーの専門課程を選択し、(中間期)試験に合格すれば、自動的にB級ライセンスを取得できた。
ただ、その(中間期)試験が受けられるようになるまでは、少なくとも2年はかかる。
また、以前のバイオグラフィーで書いたように、留学生のためのドイツ語試験に合格するまでに、すでに半年以上の時間が掛かっていたから、私がその(中間期)試験を受けられるまでは、ドイツ留学をはじめてから、少なくとも3年ほどの時間がかかることになる。
私の目標は、最高のプロコーチライセンスを取得すること。
そこに至るまでには、B級ライセンスだけではなく、ドイツサッカー協会が直接主管して実施するA級ライセンスも取得し、コーチとして、ある程度の実績を積まなければならない。
そのことを考えたら、とにかくA級ライセンスまでは、なるべく早く取得しておきたかった。
だからこそ、第一関門であるB級ライセンスを、直接、ミッテルライン州サッカー協会が主管するコーチングスクールで取得しようと決心したのだった。
■決心したら、行動を起こすのはとても早い筆者なのだ・・
私は、まず、以前にもバイオグラフィーにご登場いただいた、ミッテルライン州サッカー協会のベッカーさんに相談した。
「ビックリしたよ・・キミが、こんなに短い期間で、そこまでドイツ語が上達するなんてネ・・」
ミッテルライン州サッカー協会の閑静なオフィスで再会したベッカーさんは、相変わらず優しかった。
「そうか・・B級ライセンスにチャレンジしたいのか・・キミの目標の第一段階ということだね・・いや、大丈夫だと思うよ・・それじゃ、コーチングスクール
の責任者に紹介しよう・・彼の名前は、クラウス・ロルゲンというんだ・・あっ、そうそう、彼のことは、以前にも紹介したことがあったよね・・」
その名前を聞いたとき、急に、以前の記憶が甦(よみがえ)った。ロルゲンさん(2010年7月没)は、忘れもしない、1974年に、初めてヨーロッパへ旅行したときにお世話になった方だ。
確かそのときも、ベッカーさんから紹介されたんだった。彼は、クルマで、ドイツ全土から集まってくる「U16選抜大会」が行われるデュイスブルクまで連れていってくれた。
当時、クラウス・ロルゲンさんは、ミッテルライン州サッカー協会の専任インストラクターで、B級コーチングスクールの責任者でもあった。
「そうそう、キミのことは覚えているよ・・あの当時、そんな希望は語っていたけれど、本当にドイツ留学を実現したのか〜・・それにしても、あの当時は、お互いに、英語での拙(つたな)い会話しかできなかったよね・・」
ベッカーさんから早々に連絡を入れていただき、その日のうちに、ミッテルライン州サッカー協会が管理運営する、ヘネフという田舎町にあるスポーツシューレで、ロルゲンさんと会うことができた。
まさに、トントン拍子の進展。ベッカーさんには、本当に感謝の言葉もなかった。
■スポーツシューレ、ヘネフ・・
私も、ヘネフ(Hennef)のスポーツシューレ(総合スポーツ施設)にはお世話になった。
そこでは、ミッテルライン州サッカー協会による「B級コーチングスクール」だけではなく、中央のドイツサッカー協会が取り仕切る「A級コーチングスクール」も行われていたのだ。
私は、その両コーチングスクールを、ヘネフで終了したのである。
ヘネフ自体は、人口4万5千人ほどの小さな町で、ケルンの南東30km、ボンの東北東14kmほどのところに位置している。
そんなスポーツシューレ・ヘネフは、町外れの丘陵地帯を活用し、食堂、サウナやプール、フィットネスルームにミーティングルーム、バー、洗濯室などを完備
した宿泊施設だけではなく、天然芝と人工芝のサッカーコート多面、室内サッカーコートや総合体育館などを備え、自然に恵まれた環境を独り占めするように威
容を誇っている。
ところで、ドイツ全土に20箇所ほどあるスポーツシューレだが、施設自体は自治体が作り、その運営管理は、各州のスポーツ連名や地方サッカー協会が行っている。
そして、ケースバイケースだが、その運営管理に要するコストとして、ブンデスリーガの収益金やトトカルチョの収益金が充てられるというわけだ。
そこでは、サッカーだけではなく、ボクシング、レスリング、柔道、テコンドー、ウエイトリフティングなどといった様々なスポーツの強化合宿も行われている。
とはいっても、やはりサッカーが主体であり、各世代のドイツ代表チームがキャンプを張る合宿施設として利用されている。また、2005年のコンフェデレーションズカップでは、アルゼンチン代表が合宿を張ったことでも知られている。
そのスポーツシューレ・ヘネフにおいて、1977年の暮れに、私が参加するB級ライセンスのコーチングスクールがはじまった。
(つづく)
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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。
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重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。
追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。
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ところで、湯浅健二の新刊。三年ぶりに上梓した自信作です。いままで書いた戦術本の集大成ってな位置づけですかね。
タイトルは『サッ カー戦術の仕組み』。出版は池田書店。この新刊については「こちら」をご参照ください。また、スポーツジャーナリストの二宮清純さんが、2010年5月26日付け日経新聞の夕刊 で、とても素敵な書評を載せてくれました。それは「こちら」です。また、日経の「五月の書評ランキング」でも第二位にランクされました。
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