My Biography


My Biography(55)_大ケガ(その5)・・(2015年11月13日、金曜日)

■松葉杖(クリュッケ)と日常生活・・

退院は、ウリが手伝ってくれた。

クルマで迎えに来てくれただけじゃなく、しばらく留守にしていたアパートの掃除、買い物、料理など、日常生活を「再構築」するのも手伝ってくれたのだ。

とはいっても、日常生活は、自分自身でしっかりと体感しながら確立するのが大原則だ。まあ、人に頼ることに慣れていないという側面もあったけれど、とにかく、全てを自分で作り上げなければ気が済まない質(たち)だったんだ。

あっと・・、階段。

もちろん病院でもトレーニングしたけれど、階段の上り下りが、スポーティ松葉杖(ここからは松葉杖のドイツ語にあたる=クリュッケ=と呼ぶことにする)の真骨頂だったんだよ。

前回コラムでも書いたけれど、クリュッケの「運動性能」の高さを実感していたんだ。

脇の下で支えるタイプの松葉杖では、一段、また一段と、気を遣いながら上ったり下りたりしなければいけない。それに対して「クリュッケ」では、両足を交互に使って上り下りするのと同じような軽やかさで動けるというわけだ。

何故、階段のハナシかって!?

それは、私のアパート(フランク・シュトラッセの11番)では、部屋がある4階まで、急な階段を上らなければいけなかったからなんだ。もちろん下りには、もっと気を遣う。

要は、学校や通学、サッカー生活など、階段なしには立ちゆかない日常生活だから、その話題は外せなかったということだ。

特に買い物。

そこでは、階段を上り下りするのが、より難しい(危険な)作業になる。

買い物をした後のビニール袋を、クリュッケ(前回までステッキなんて呼び方をしていたっけ!?)のグリップに引っ掛けて運ぶのだから当たり前だ。買い物袋は、たまに10キロ以上になることだってあったんだよ。

まあ良いトレーニングと捉えられないこともないわけだけれど、大男の日本人に、クリュッケと買い物袋・・ということもあって、アパートの近隣でも、すぐに目立つ存在になってしまった。

「・・あそこのアパートに住んでいる日本の学生さんは、ケガをしたことで松葉杖生活になっているけれど、それにしても動きが素早いよね〜・・」なんて、ネ。

でも何度か、危ない思いをしたこともあった。

それは、「クリュッケ」の先にはめ込まれているゴム製のストッパー(まあ、滑り止めだね・・)がすり減り、アルミの本体部分が「むき出し」になってしまう状態が、頻繁に起きたからだ。

そう、アルミ本体と地面がダイレクトに接するから、「つるんっ!」と滑ってしまうのも道理だったんだよ。滑るだけならば良かったけれど、実際に転倒したこともあった。

一度などは、階段を下りるときに滑ったことで、周りで見ていた人たちが、「ワ〜〜ッ!!」と叫ぶほど危険なシチュエーションもあった。

そのゴム製のストッパーだけれど、動き回る範囲が広いことや激しい動き方が原因で、リハビリ医がビックリするほど頻繁に、交換しなければならなかった。

フ〜〜・・

■ギプスが取れた・・

もちろん大学にも、クリュッケを活用し、バスと市電を乗り継いで通った。

以前にも書いたと思うけれど、私が住んでいたアパートは、市の中心部にある。

それに対して体育大学は、ケルン全体を取り囲むように整備されている「市の森」のなかにある。だから、街中から町外れまで通学しなければならなかった。

最初の頃は、ウリが迎えに来てくれることも多かったけれど、やっぱり「自立」して生活できなければ自由を失ってしまうということで、なるべく自分自身で移動することにしていた。

この「自立」というテーマだけれど・・

私は、もし心のなかに、少しでも「ウリに頼る方が楽かも・・」という安易な感覚が芽生えたら、それは危険なコトだと、おぼろげながらも感じていたのである。

もちろんウリのことは、その当時も、今でも、心から敬愛している。ただ、その信頼関係と、自分自身の自由を確信していたい(自立していたい!)という欲求は、まったく別次元の情緒だったんだ。

もちろんウリも、そんな「微妙な心のメカニズム」を、ちゃんと理解してくれていた。

まあ、とはいっても、ギプスと「クリュッケ」にもかかわらず、我々は、いつものように、ほぼ毎日クナイペへ出掛けていたよね。

もちろん私のアパート近くのクナイペで飲むことの方が多くなったわけだけれど、そのことで、新しい飲み屋テリトリーも開発できた。

そんな新しい飲み屋では、飲みに来ている人たちの「内容」も違う。だから、知り合って話す話題も、学生との会話では味わえない「新鮮な世界」が多かった。

あっと、蛇足。

やっとギプスの取れる日がきた・・というハナシだった。

もちろん病院へ行かなければならないけれど、そのときだけは、ウリに頼み込んで、クルマで送り迎えしてもらった。何せ病院が、市電やバスを何度も乗り継がなければたどり着けないほど遠いところにあったんだよ。

本当に、ウリには感謝しかないのだけれど、その彼が、こんなことを言うんだよ。

「オマエの感謝ってさ、本心からのモノだって、素直に受け容れられるよ・・まあ、日本人であるオマエの人間性が分かっているというコトもあるんだろうけれど・・ドイツ人の場合は、どうしても形式的なモノだって感じてしまうことが多いからな〜・・」

そんなウリの心のこもった言葉を、こちらも素直に受け容れられた。

そのとき、「こんなに深く分かり合える友人を得ることができたなんて、なんていう幸運に恵まれたんだろうか・・」と、しみじみ思ったものだった。

ウリにとっても、私は、信頼の置ける友人だったはずだ。そんなふうに信頼関係が深まった背景には、ウリが、東ドイツからの「逃亡者」だというコトもあったのだろうか!? さて〜・・。

あっと、病院の処置室・・。

「よし、これでキミはギプスから自由になった・・もう痒(かゆ)みに耐えなくてもよくなるよ・・後は、このサポート器具を定期的に交換するだけだ・・」

そんな会話を交わしたところまではよく覚えている。でも、そこからの記憶が定かではない。

ギプスが取れ、足首を固定する軽めのサポート器具をバンデージで固定していたのは覚えているけれど、その後が・・。

もしかしたら、そのサポート器具の「かかと部分」に、接地できるような「ゴム製の出っ張り」が付けられていたかもしれない。

だから、その時点で「クリュッケ」からも解放された!?

いや・・、そこのところが定かじゃないのだ。

この、踵(かかと)を地面に着けられる「ゴム製の出っ張り」が付いた、足首を固定するサポート器具だけれど、それによって、クリュッケなしで歩けるようになった!?

いや、そうではなく、そのサポート器具とクリュッケを併用していた!?

そこのところが、正確に思い出せないのである。フ〜〜・・。

■そして数ヶ月・・やっと走れるまでに回復したけれど・・

そのときの感動は、いまでも鮮明に思い出す。

たしかに、足首固定のサポート器具から後のプロセスについては、明確に思い出せない。

でも、それら全ての器具から解放されたときの感動は、よく覚えているのだ。

もちろんボールを蹴ることなど、夢のまた夢だったけれど、とにかく、自分の脚で立ち、走れることの感動は、いまでも忘れないのだ。

でも実際にサッカーができるようになるまでには、それからまた一月ほど掛かった。

もちろん、足首には違和感が付きまとっていたし、怖さも残ってはいた。

でも、サッカーができる喜びの方が強く、どうしても思い切りプレーしてしまう。そして、何度も、足首のじん帯を痛めたりと、さまざまな困難を克服していかなければならなかった。

結局、足首のことを気にせず、思い切りプレーできるようになるまでには、ケガをしてから半年以上かかったと覚えている。もちろん、まだ身体の中には金属プレートが入ったままだ。

「そうか〜・・またサッカーができるようになったのか・・本当によかった・・実は、あの時、これは大変なケガだって思っていたんだよ・・キミが、実際にプ レーできるまでに回復するかどうかに確信がもてなかったんだ・・まあ、あの時は、絶対に大丈夫だって言ったけれどね・・」

ケガを負ったとき現場に駆けつけてくれ、応急処置を施してくれた体育大学のプロフェッサーも、そう言って、喜んでくれたっけ。

■でも、金属プレートを取り外す手術で大きなミスが・・またその後にも・・

ケガ(手術)をしてから、ちょうど1年後。

当初のプラン通り、タテに裂けた腓骨(ひこつ)を固定するために埋め込まれた金属プレートを取り除く手術を受けた。

そのときは、二日間の入院だけで済んだのだが、ものすごく解放され、ハッピーな気持ちで満たされたものだ。これで、(もっと!?)思い切りサッカーができるぞ・・。

でも・・

「実は・・本当に申し訳ないのだが、キミの中に埋め込まれていた金属プレートの固定用ボルトを、一本、外し忘れてしまったんだよ・・まさに、人生最悪の見落としだった・・ということで、もう一度キミの足首を切開しなければいけなくなったんだ・・」

抜糸もあり、担当医の方に呼ばれて再び病院を訪れたときのことだった。

担当医の方から、そんな、思いもかけない告白をされたんだよ。いや・・、「告白」という表現は失礼に当たるだろうから、まあ報告・・かな。

でも私のなかからは、憤りの感覚などはまったく湧いてこなかった。とにかく、何から何まで「ドイツ」にお世話になった・・と、そんな感謝の気持ちの方が強かったんだ。だから・・

「そうですか・・誰にでも見落としはあるものですよね・・こちらは、まったく気にしませんので、よろしくお願いします・・」という言葉が、素直に口をついていた。

でも、ウリは憤っていたっけ。

多分それは、彼が「ドイツの医療」に対して誇りをもっていたからなんだろう。だから、ドイツ人による医療ミスが許せなかった!?

そうか・・

そのときの「情緒」については、まだウリと語りあったことがなかったっけ。今度スカイプで話題にしてみよう。ヤツは、まだ覚えているだろうか・・??

あっと、再手術。

それは、局所麻酔だけで、簡単に済んだし、入院も、もちろん必要なかった。まあ、15分といったところだったと覚えている。でも・・

そう、その一週間後の「抜糸」で、ものすごい経験をしてしまったんだよ。

あろうことか、抜糸のとき、縫った糸をプツンッと切ったまではよかったけれど、その「切れ端」が見つからなくなってしまったんだ。

ピンセットで、手術跡の「なか」をまさぐる担当医。

そのときの痛みは、もう尋常じゃなかった。たぶん、それ以上の痛みは、後にも先にも味わったことがないと思う。それほど強烈な痛みだった。

「これかな〜・・ちょっと待って、違うな・・」など、担当医の方が、ピンセットで、私の足の「なか」をまさぐるんだよ。

だから最後は、叫んだ。

「もう何でもいいから、それらしきヤツを、引き抜いてくださいっ!!」

そして次の瞬間、痛みから解放された。「ソレ」が、まさしく糸の切れ端だったんだ。

そのときも、ウリが立ち会ってくれていたんだけれど(例によってクルマで送り迎えしてくれた)、彼にとってもそれは、ちょっとショッキングなシーンだったらしい。

最初の頃、ヤツは、こんなふうに、痛がる(かなりのうめき声を上げていたらしい!)わたしを落ち着かせようとしていた。

「オマエ・・ヤーパン(日本)のサムラ〜イだろ・・我慢しろよ・・すぐに終わるから・・」

でも時間が経つにつれて、ウリも、コトの深刻さを理解したようだった。

何せ、その担当医の方が、「これかな〜・・あれかな〜・・」と、わたしの身体のなかを、ピンセットで「まさぐり」、その手術跡の周りが血だらけになっていたんだから。

そしてウリが、「ちょっとトイレへ行ってくる・・」と、その場を離れる。フ〜〜ッ・・

その次の瞬間、わたしの叫びが口をついたというわけだ。

そのときのコトは、いまでも語りぐさになっている。もちろんウリにとっても、私にとっても。

(つづく)

PS:そのときの大ケガについては、こんなところですが、次には、もう二つ、大ケガについてのエピソードを聞いてください・・そこでは、「あの」ホルガー・オジェックとの最初の出会いもあります・・

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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。

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 重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。

 追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。

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 ところで、湯浅健二の新刊。三年ぶりに上梓した自信作です。いままで書いた戦術本の集大成ってな位置づけですかね。

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