My Biography


My Biography(56)_大ケガ(その6_エピソードの1)・・(2015年11月25日、水曜日)

■ボキッ!!・・そして、ホルガー・オジェック・・

そのとき、異音を聞き、何かを感じた。大変なコトが起きてしまった・・に違いない。

それは、「A−ライセンス・コーチングスクール」初日のことだ。

「A−ライセンス」のコーチングスクールについては、別途、詳しく語らせてもらうけれど、ここでは、その初日に起きたアクシデント(大ケガ)のハナシを書こうと思う。

ところで、その「A−ライセンス」のコーチングスクール。

ときのチーフインストラクター(スクールの総責任者)は、後に「1.FCケルン」の監督に就任する、カールハインツ・ヘダゴットだった。

彼は、サッカーの戦術的なトレーニング方法に「新しい発想」を提起したことで注目され、ドイツサッカー協会から、コーチングスクールのインストラクター就任を請われた。

奥寺康彦ストーリーでも書いたけれど、ヘネス・ヴァイスヴァイラーの後を受けて「1.FCケルン」の監督に就任したカールハインツ・ヘダゴットは、理論バックボーンは別として、「プロ現場でのウデ」という視点で高い評価を受けることはなかった。

奥寺康彦は、結局そのヘダゴットが原因で、ヘルタBSCベルリンへ移籍せざるを得なくなったのだけれど、ヘダゴット自身も、その半年後にはクラブを解任されたのである。

そのときのメディア論調は、こんな「感じ」だったと覚えている。曰く・・

・・所詮ヘダゴットは、理論至上主義者にしか過ぎず、ヘネス・ヴァイスヴァイラーのような、理論に裏打ちされた実践的パーソナリティー(プラグマティスト!?)という視点では、プロのレベルに達していなかったということだ・・

あっと・・、ちょっと蛇足が過ぎた。

A−ライセンス・コーチングスクール。そこで、カールハインツ・ヘダゴットを輔佐するアシスタントをつとめていたのが、ホルガー・オジェックだったのだ。

そして私は、その二人の目の前で、二度目の大ケガ(またまた腓骨骨折!)を負ってしまうことになるのである。

■コトの顛末・・

A−ライセンス・コーチングスクールだけれど、一般のサッカー人(コーチ)の場合は、参加資格を得るだけでも難しい。

私の場合は、自分のクラブでのユース指導など、最低の条件(コーチ実績)はこなしていたけれど、それに加えて、(当時は珍しかった!?)日本人であること や、私の恩師、ケルン体育大学のサッカー主任教諭だった(故)ゲロー・ビーザンツさんからの「情報提供」もあったと思う。

ゲロー・ビーザンツさんは、「A−ライセンス」の上にランクされる最上級プロコーチ養成コースの校長でもあったわけだから・・。

その、A−ライセンス・コーチングスクールの初日。

「顔見せ」という意味合いもあって、参加者全員が四つのグループ(チーム)に分けられ、サロンフットボール(ミニサッカー)のリーグ戦で親睦をはかることになった。

そこには、参加者のプレイヤーとしての能力を「互いに把握する・・」という意味合いもあったわけだけれど、はじめからレスペクトされている(元)有名プロ 選手とは違い、「その他」の参加者は、周りへアピールすることでグループ内の「ヒエラルキー・ポジション」をアップさせようと、かなり真剣にプレーしてい た。

もちろん、私も含めて・・。

このサロンフットボール(ミニサッカー)は、コーチングスクールの会場になったスポーツシューレ・Hennefという、ドイツサッカー協会が主管するスポーツ総合施設のなかにある、人工芝が敷きつめられた屋内サッカー場で行われた。

その人工芝だけれど、「当時のレベル」だから、その危険度は推して知るべし・・だ。

要は、全体的にとても硬く、ステップが引っ掛かる・・など、思い切ってプレーするには、不確実な要素が多かったのだ。

私は、2試合目に出場した。もちろん、良いプレーをしなきゃ(良いところを魅せなきゃ!)と意気込んでフィールドに立ったことは言うまでもない。

そんなふうに気合いを入れてプレーしていたとき、ベストな(斜めの)ラストスルーパスが、私が走り込む(眼前の!)決定的スペースに送り込まれてきた。まったくフリーだ。そして・・

その瞬間、フィールドが(チト危険な!)人工芝だということに気を回すことは、全くなかった。とにかく、斜めに送り込まれたラストパスに全力で追い付き、そしてボールをダイレクトで叩いた。

左足での(ボレー気味の)ダイレクトシュート。

ビシッ!!

蹴られたボールは、鋭くゴール右のサイドネットに突き刺さった。

そして、「ヨシッ!!」と、足を振り切りながら、右手でガッツポーズを出した次の瞬間、「音」がした・・というわけだ。

シュートしたときの立ち足(右足)に、遅れたタイミングで相手ゴールキーパーが飛び込んできたのだ。彼の身体が、シュート直後に、わたしの右足を直撃したことは言うまでもない。

彼は、プレイヤーを引退したばかりの元セミプロ選手。自分の「プレー感覚」に、物理的な能力が追い付かなくなっていたというわけだ。フ〜〜ッ・・

私の目は、まだ、自ら放ったシュートの軌跡を追っていた。でも次の瞬間、身体全体がフッ飛ばされた。かなり派手に飛んだし、そのときの「異音」は、みんなに聞こえたはずだ。

そして、誰もがフリーズした・・と思う。

すぐに、ベンチ(インストラクター)が飛んできた。そう、ホルガー・オジェック。

「大丈夫か?・・痛みはあるか?」

矢継ぎ早に質問を飛ばすホルガー。私は、まだ何が起きたのか把握できずに、ゆっくり立ち上がろうとしていた。そして次の瞬間、こんな言葉が口をついた。

「右足がおかしい・・踏ん張れない・・」

そのときの骨折だけれど、体育大学で負った大ケガとは違い、腓骨に、単純なヒビが入った「だけ」だった。

でも、もちろんコーチングスクールに参加しつづけることなど出来るはずがない。私は、ホルガー(オジェック)が運転するクルマで、そのまま病院に直行するしかなかった。

そのときは「ヒビが入った」だけだったから、ギプスではなく、足首を「型枠フレーム」にバンデージで固定する方法がとられた。

また、その「型枠フレーム」は、ゴム製の「カカト」を備えていたから、クリュッケ(松葉杖)は補助だけのために用意された。

ホルガー(オジェック)は、そんな救急病院での治療に最後までつきあってくれたのだけれど、帰りのクルマのなかで、こんな風に、私を鼓舞してくれたモノだ。

「まあ、オマエも誇り高き日本人だろうから同情なんてされたくないだろうけれど、これだけは言っておくよ・・オマエは学生だから、治療にカネは一切かから ないし、ドイツサッカー協会がかけている保険から見舞金が出るはずだ・・また、完治したら、優先的に、Aのコーチングスクールへ参加できるように手配して おくよ・・」

ホルガー・オジェックとは、今でも、そのとき以来の「戦友的な関係」だ。

■右足首(腓骨)へのアクシデントが続いたけれど・・

A−ライセンスのコーチングスクールだけれど、ホルガーが約束していたとおり、三ヶ月後のスクールに優先して参加することができた。

まあ、A−ライセンスのコーチングスクールについては、機会を改めて書こうとはおもうけれど、それよりも・・

そう、そこまでの一年半という短期間に、2度もつづけて、右足首を支え、安定させる「腓骨」に大きなアクシデントを負ってしまったという経験。

最初の大ケガは、再びプレーができるようになってからも、常に何らかの違和感に苛(さいな)まれるほど大変なモノだったし、1年後には、固定用のプレート を除去するための再手術を受けたり、そこで施術してくれた医者が、プレートを固定していたボルトを外し忘れてしまったりと散々だったけれど、その、まった く同じ箇所を再び骨折してしまったんだよ。

そのとき、オレの右足首は呪(のろ)われているのかもしれない・・なんて思ったモノだった。

でも、本当にシリアスな「災い」は、右足首ではなく、右膝関節に振りかかったのである。

(つづく)

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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。

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 重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。

 追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。

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