湯浅健二の「J」ワンポイント


2001年J-リーグ・ファーストステージの各ラウンドレビュー


第15節(2001年7月21日、土曜日)

さよならピクシー・・そして重傷のヴェルディー・・ヴェルディー東京vs名古屋グランパス(0-3)

レビュー

 どうして、ピクシーに「英語」でしゃべらせるんだ!! 私はアタマにきていました。もしそれがピクシー自身が望んだことだとしても、まわりが説得し、彼の「母国語」でしゃべらせるべきだったのに・・。「超」一流の通訳を予約しておくなど、事前にすべての準備を整えておくのはマネージメントとしてあたりまえではありませんか。彼が為した「貢献」は、とにかくレベルを超えたモノだったのですから。

 ゲーム後の彼に対するインタビューの最中、私は、そんなふうに怒り心頭に発していたのです。たしかにピクシーの英語は、そんなに下手ではありません。でもそれは、彼にとっては所詮「外国語」。確実に「フル・フィーリング」で語れないに違いありません。最後の彼のグラウンド上での瞬間だというのに・・何てコトだ・・

 私は、英語で話すときは「英語」で考え、ドイツ語のときはドイツ語、そして日本語のときは日本語。「話す」という行為は、アタマに描くイメージを「言葉」に託して表現するわけですが、母国語で「考え」ないのだったら、イメージの広がり自体(彼が本当に伝えたいこと・・もちろん心から・・)が限られてしまうのも道理なのです。

 ピクシーの「素肌感あふれる深い言葉」を期待していた私は、本当に悲しい思いで彼のインタビューを聞いていました。たしかに「セブン・ビューティフル・イヤーズ」などの、印象的な表現はありましたが・・

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 このゲームは、ピクシーの引退試合として素晴らしい結果になりました(3-0の完封勝利をおさめたことも含めて)。ピクシーは、いつものように「全力」でプレーしていましたし(もちろん、いまの彼にできる限界まで頑張ったという意味で・・)、これぞ「クリエイティビティー」というイマジネーションあふれるプレーを展開するなかで、真骨頂である「最終勝負のファウンデーション」でも何度も見せ場を作りました。実際にアシストを決めましたし、得点には至りませんでしたが、試合終盤で魅せた、タテへ走り抜けた福田へのスルーパスは、本当に美しい限りではありました。

 だからこそ、彼のアタマにある「イメージ」を、できる限り「解放」してあげたかったのです。もちろん私も、フィーリングあふれる、彼の素晴らしい「言葉」をアタマに刻み込みたかったんですよ。それが・・

 そんなことはありましたが、とにかく、ピクシーに対して心から「アリガトウ」と言いたい湯浅なのです。ここで、集英社から出版された「Finale Dragan Stojkovic」というムック読本に寄稿した文章の最後の部分を・・

 『まさに、全てのサッカー要素が理想的にバランスした最高のプロフェッショナル、ドラガン・ストイコビッチ。彼は、グランパスだけではなく、日本サッカー界全体にとっての「宝物」だった。我々は、「本物の良いプレーヤー」というテーマについて彼が残した「イメージ遺産」を、世代を越えて伝承し、発展させていかなければならない。それこそが、『全力を出しきった』トッププロフェッショナルに対する「フェアな報酬」なのである』

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 私は、ヴェルディーの選手たちに対し、特に「ボールプレーヤータイプの(自分はうまいと自惚れている)」選手たちに対し、この同じ言葉を「突きつけたい」と思っています。『我々は、「本物の良いプレーヤー」というテーマについて彼が残した「イメージ遺産」を、世代を越えて伝承し、発展させていかなければならない・・』

 とにかくこの試合でのヴェルディーは、もう「最悪」!!!・・だったのです。

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 さて、もう書くまでもなく、この試合の「注目ポイント」は、更迭された松木監督に代わってチームを率いる小見新監督の「手腕」。松木前監督も小見監督も、私が読売サッカークラブのトップチームでコーチをやっていた当時の選手たち。ちょいと複雑な心境ではあります。

 とはいっても、状況は、当時とは違う「純粋プロ」の世界。彼らのパフォーマンスのみが「価値交換メカニズム」のベースという純粋競争環境です。もちろん「人間的」には、今でも彼らのことを、苦楽を共にした友人だとは思っていますが・・

 そして、小見監督に率いられたヴェルディーのパフォーマンスが、地に落ちてしまって・・。暑かった!? そんなことは全く言い訳にはなりません。彼らの、基本的な「プレー姿勢」のことを言っているのですからネ。

 コンフェデレーションズカップ前の「準備試合」で、ヴェルディーは、ブラジル代表と対戦しました。そのとき見ていた観客の皆さんは、強烈に感じたに違いありません。「エッ・・!? どうして、こんなに強いチームが、日本のJリーグで最下位なんだ・・??」。たしかにあのときのブラジルは「三軍」。でも、腐ってもブラジル代表。そのチームと、互角に(部分的には互角以上に)わたりあったのです。一人ひとりが、サボらず(集中を切らさず=常に深くまで考えつづけながら)、そして積極的に、攻守にわたってリスクにチャレンジしていったのです。

 私が言いたいことは、ヴェルディーの選手たちが、リーグでも「最高レベルの個人能力」をもっているということです。それが、このグランパス戦では「あれだけ」のサッカーしかできない(やらない!?)。これはもう、プロとして、生活者(サッカーファン)に対する背信行為だと断罪せざるを得ません。

 あれほどの能力がありながら、チームメイトがボールを持っても周りはほとんど動かず、常に「止まって」パスを待つ・・、だから足許パスばかり・・、またパスを出してからの「パス&ムーブ」を実践する選手など皆無・・、また守備でも、グランパスのミス待ちという「受け身姿勢」のプレーに終始している・・(グランパスの出来の悪さに助けられた!? でも結局は三点もたたき込まれてしまいましたがネ・・)。ブラジル戦では、全員が攻守にわたり、特に「ボールがないところ」で、しっかとりプレーしていたのに・・

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 この試合では、グランパスの出来も良くありませんでした。それには、ピクシーが、目に見えて運動量が衰えたために、昔ほどの「頻度」でボールに触れないということもあったのでしょう。これでは、「個人的な能力の高い」ヴェルディー選手たちに、(いくら受け身で消極的、そしてサボリ気味の守備ブロックとはいえ!)簡単に攻撃の芽を断ち切られてしまうのも道理。ただ逆に、ヴェルディーの攻めも、まさに「単発」で・・

 この単発といったのは、中盤での組み立て段階における「クリエイティブなボールの動き 」がまったく見られないから、最後は、組織とは隔絶した「個人」のチカラ頼みにならざるを得ない・・ということです。

 止まっている選手の「足許」へパスが回される・・、その選手は「余裕をもって」ボールをキープしながらラストパスを狙う・・、それが叶わないから、近くにいる、これまた止まっている味方へパスを回し、自身はその場に立ち尽くして再び「足許パス」を待つか、ゆったりと移動するだけ・・。そんな怠慢プレーの繰り返し・・。これでは・・

 ヴェルディー選手たちが「全力ダッシュ」をするのは、最後の最後のポイントか、相手に決定的なスルーパスを出されたときくらい。現代サッカー(トップクラス)では、全体の「移動距離」の30パーセント近くが全力疾走なのが常識なのに(もちろんブラジルでもネ)・・

 このことは、見ている観客に方々が如実に感じたに違いありません。とにかく、「オレたちはうまいんだヨ・・」ってな高慢なプレー態度。見ていて、本当に不愉快でした。正確なパス、しっかりとしたボール扱い、そして攻守にわたる「最終勝負の勘どころ」など、たしかに彼らは「上手い」し「能力」がある・・。でも逆に言えば、だからこそ、もっと魅力的でダイナミックなサッカーが展開できるはずではありませんか。私が彼らに対して言いたいのは、全力を傾注しないプレー姿勢は(オレたちは効率的なサッカーをやろうとしているんだよ〜〜ん・・などという姿勢は)プロにあるまじき・・ということなんだよ!

 これでは、セカンドステージに入ったら、本当に二部落ちの崖っぷちに立たされてしまう・・あのヴェルディーが・・。まあ彼らの場合、そんな「危機感(刺激)」がなければ、ブラジル戦のような、ハイレベルなダイナミックサッカーを『やらない』んでしょうがネ・・。でも、そんなことをしていたら、本当に手遅れになってしまうし、それ以上にファンから見放されてしまう・・

 とにかく、彼らに猛省をうながしたい湯浅なのです。

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 ちょっと余談になりますが・・

 たまに私は、ピュアプロフェッショナルであるということは、「アイツは人間的には本当に好きだし、良き友人でもあるわけだけれど、でもビジネスでは、仕事ができないからクビ! と言えるかどうか・・」なんて、本当に具体的な表現をすることがあります。

 近づきすぎず、はたまた突き放しすぎず(遠すぎず)。もちろん、(自身のプライドをベースにした!?)誠実さ(=フェアネス等々、包含されるコノテーションは多岐にわたる!)など、根元的なところでは「人間的」に信頼されている・・。そして、自身の強烈なパーソナリティーをベースに、チーム内に純粋な競争環境(ライバル環境)やテンション(緊張関係)を常に演出することができる。また、(瞬間的な!?)選手たちからの「怒りや憎しみ」に、顔色一つ変えずに耐えることができるくらいの「確信」をもっている。もちろんその確信は、瞬間的には怒ったり恨んだりしている選手たちでも、いつかは分かる・・そしてそれが、オレに対する信頼感に変容する・・というものです。

 まあ、「監督の仕事」を、数行で言いあらわすことなど出来るはずもないわけですが、要は、監督と選手が近づきすぎては(=お友達=甘えの構造=選手たちに言い訳のスペースを与えてしまう!)、チームが「仲良しクラブ」になってしまうのがオチだということです。そして、モラルなどのファクターも含む「緊張感」が地に落ち、チームが瓦解の道を一直線・・。これでは「闘う集団」など、夢のまた夢・・

 とにかく今は、小見監督の手腕に期待するしかないわけですが、この試合での選手たちの基本的な「プレー姿勢」を見ていたら・・ってなことを思っていた湯浅でした。

 ちょっと「まとまり」がなくて、ゴメンなさい・・では・・



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