ちょっと長いですが・・では・・
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ピクシーが残した、「本物の良い選手」というイメージ遺産・・
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「ストイコビッチは、本当に素晴らしいプレーヤーだよ・・。オレたちの代表も、ヤツのおかけで痛い目にあわされたしな・・」
友人のドイツ人プロコーチ、クリストフ・ダウム、ローラント・コッホ(当時は、ドイツの強豪クラブ、バイヤー・レーバークーゼンの監督とヘッドコーチ)たちと、いつもの情報交換をしていたときのことだ。ひとしきり戦術的なディスカッションをした後、日本の「J」でドラガン・ストイコビッチが活躍していることが話題になった。1998年のフランスワールドカップが終わった後に開催された、ドイツサッカーコーチ連盟主催の国際会議でのことだ。
ストイコビッチは、フットボールネーションの「現場」では、誰もが欲しい選手の筆頭に挙げられていた。身体的な能力、技術的、戦術的なパフォーマンスは言うまでもなく、何といっても、あれほどの天才であるにもかかわらず、攻守にわたって、目立たないチームプレーにも全力で取り組む「闘う姿勢」が、ヨーロッパのエキスパートたちが称賛を惜しまないことの背景にあった。
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ドラガン・ストイコビッチ(以下ピクシー)が、本当の意味で世界デビューを果たしたのは、1990年イタリアワールドカップだった。彼はその時点で既に、(当時の)ユーゴスラビアの強豪クラブ、レッドスター・ベオグラードから、フランスのマルセイユへの移籍が決まっていた。脂が乗り切った25歳。
ユーゴスラビアは、グループリーグで、この大会に優勝したドイツに敗れはしたものの、「内容」では高い評価を受けていた。その中心的な存在がピクシーだったのである。そしてグループ二位で進出した決勝トーナメント一回戦では、彼のフリーキックが冴えてスペインを倒し、準々決勝へと駒を進める。
相手は、同じくトーナメント一回戦で、ブラジルを敗ったアルゼンチン。「あの」ディエゴ・マラドーナ率いる現役ワールドチャンピオンである。ただ、イタリア大会屈指の好ゲームという評価を得たこの一発勝負マッチにおいて主役を演じたのは、世界が注目するマラドーナではなく、国際的には「まだ」無名に近かったピクシーの方だった。
ユーゴの一人が退場になったことで劣勢になるなか、ピクシーは、攻撃だけではなく、守備においても奮闘する。ボールを奪い返されてはすぐにディフェンスに入り、相手を追いかけ回してボールを再び奪い返すというシーンを何度目撃したことか。また攻撃では、ボールのないところでのアクティブな動きをベースに、シンプルにプレーしながらも、勝負所では、タイミングのよいドリブル突破や、タメからのラストパスにチャレンジしていく。ユーゴが作り出したチャンスのほとんどは、そんな彼のダイナミックプレーによって演出されたものだった。
圧巻だったのは、延長前半4分に作り出したユーゴの絶対的チャンス。
アルゼンチンのフリーキックをはね返したユーゴが逆襲をかける。中盤の左サイドでボールをもったプロシネツキが、直線的にドリブルしながら相手ディフェンダーを引きつけ、後方からタテのスペースへ抜け出すピクシーへ、絶妙のタイミングでタテパスを出す。
ドリブルで上がりつづけるピクシー。もちろんアルゼンチンのディフェンダーがチェックに寄ってくる。まず「中」へ方向転換することで、そのディフェンダーの動きを止め、次の瞬間、ズバッという切り返しから、タテへ抜け出すピクシー。あわてて追いかけるアルゼンチン選手。ピクシーのアクションは、そのまま決定的センタリングを上げてくる! と、見ている者すべてを確信させるくらいスムーズなものだった。
そのときアルゼンチンゴール前では、ピクシーの意図を「感じた」チームメイトが、決定的なフリーランニングをスタートしてた。サビチェビッチである。アルゼンチンゴール前に集まる「人垣」の後方から、彼らの「鼻先」に空いた猫の額のようなスペースへ向け、爆発的なダッシュをスタートしたのだ。
しかし、ピクシーを追いかけたアルゼンチンのディフェンダーがギリギリのところで追いつき、センタリングを上げさせまいと、深いタックルを仕掛けてきた。その瞬間だった。ピクシーの「天才」が、まばゆいばかりの光を放つ。
スパッ! 素早く、鋭利な切り返しで、アルゼンチン選手のハードなスライディングタックルをきれいに外しただけではなく、背筋をピンと伸ばした姿勢で一瞬の「タメ」を演出してしまったのである。この瞬間、アルゼンチンゴール前に集結した選手たちの視線は、完全にピクシーのアクションに釘付けになってしまう。一瞬の意識の空白。ただサビチェビッチだけは確信していた。「ピクシーは、絶対にオレの動きを感じている!」。スッと、横にいたアルゼンチン選手から離れるようにポジションを移動しつづける。
ピクシーには見えていた。切り返しながらも、サビチェビッチの「ポジションの微調整」が明確に見えていたのである。そしてラストパスが送り込まれた。サビチェビッチの利き足である「左足」にピタリと合う決定的パスが。
その瞬間、誰もが確信したに違いない。「あっ、ゴールだ!」。ただ、サビチェビッチの左足から放たれたシュートは、無情にも、アルゼンチンゴールを僅かに越えていってしまう。信じられないという表情で頭を抱えるピクシーとサビチェビッチ。
その後ゲームは互いに攻め合うエキサイティングな展開になるが、結局ノーゴールでPK戦に突入する。結果は、ご存じの通り「3-2」でアルゼンチンが準決勝に駒を進めることになった。それでも、この試合で魅せたユーゴスラビアのパフォーマンスは、人々の記憶に長く残るに違いない。そう、ピクシーの、「バランスのとれた」スーパープレーとともに・・
それが、「ユーゴスラビア」としての最後の国際大会になった。ユーゴが、チトー大統領の死去、「東西の壁」の崩壊という巨大な社会的変動をきっかけに、民族紛争から内戦へと突入してしまったのである。そして国際舞台からも締め出されてしまう。悲しいことだ。選手たちも、ヨーロッパ各国のリーグへと散り散りになっていった。
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次に、国際舞台でピクシーの勇姿を目の当たりにしたのは、八年後のフランスワールドカップだった。場所は、パリから200キロほど北にある小さな町、ランス。そこで、予選グループリーグ「F組」の天王山、(新)ユーゴスラビア対ドイツの試合がおこなわれたのだ。
試合内容は、ドイツに対してコンプレックスを持つユーゴスラビアという、それまでのイメージを完全に払拭するものだった。ユーゴが、グラウンドを席巻したのである。中盤でのアクティブ守備をベースに、攻撃となったら、チームプレー(中盤でのアクティブなボールの動き)と個人勝負プレーが見事なハーモニーを奏でる。クルクルとパスが回るだけではなく、最終勝負の場面では、「東欧のブラジル」という賛辞を欲しいままにする「才能」たちが、魅惑的なドリブル突破やコンビネーションを披露するのである。そして、「あの」ドイツに対し、二点ものリードを奪い取ってしまう。
「壁」が崩壊し、選手たちがヨーロッパトップネーションのリーグで活躍をはじめたことが、彼らの根深いコンプレックスの解消に大きく役立ったことは言うまでもない。
ピッチ上で展開されたユーゴのサッカーには、少なくとも後半の半ばまでは、美しさだけではなく、何ものをも突き破るような力強さがあった。演出家は、もちろんピクシー。その周りで、ユーゴビッチ、コバチェビッチ、はたまたミヤトビッチといった役者たちがクリエイティブなフットボールシアターを披露しつづけていた。
ただ残り15分となったところで、試合のフローが、怒濤の勢いで逆流してしまう。失うものが何もなくなったドイツが、終盤の大反抗によって「2-2」の引き分けに持ち込んだのだ。久々に感じた「これぞドイツ魂」というエネルギーの爆発。
たしかに、勝ち試合を最後のところで引き分けにされてしまった。とはいえ、彼らが展開した、自信あふれる魅惑的なサッカーによって、大会でのユーゴの存在感が格段に高まったことだけは確かな事実だった。
そして決勝トーナメント一回戦。相手は、グループリーグ戦を通じて調子を上げてきたオランダである。大会後、多くのエキスパートたちが、サッカー内容でのナンバーワンはオランダだったと評価していた。試合も、総合力で上回るオランダが押し気味に進める。それに対し、攻守にわたるアクティブプレーで引っ張るピクシーを中心に、「才能ベース」の鋭いカウンターを仕掛けるユーゴ。
先制ゴールはオランダだった。前半37分、タテパスを受け、背にした相手マークを巧みに外したベルカンプが、右足で見事に決めたのだ。ただ後半3分には、ピクシーの右足から放たれた正確無比のフリーキックを、コムリエノビッチが、豪快に同点ヘディングシュートを決める。それだけではなく、その直後には、ユーゴビッチが倒されたことでPKを得る。ただ、キッカーのミヤトビッチが放ったシュートは、直接バーを叩いてしまいノーゴール。
そんな落胆シーンはあったものの、その後は、勢いに乗ったユーゴが試合のペースを握りはじめていた。ただそのタイミングで、信じられない選手交代が行われることになる。ピクシーが、サビチェビッチと交代してグラウンドを去ってしまったのだ。そのときボクは、守備への貢献度も含めた総合力では断然ピクシーの方が上なのに・・、それに、ピクシーがグラウンドを出てしまったら、ユーゴにチームリーダーがいなくなってしまう・・と、愕然としたものだ。そして案の定というか、徐々にオランダがペースを奪い返し、ロスタイムでのダービッツの決勝ゴールへと突き進んでしまうのである。
そして世界舞台での再デビューを果たした(新)ユーゴスラビアのワールドカップが、またピクシー自身にとっての最後のワールドカップが終演を迎えた。
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オランダは、二年後のヨーロッパ選手権(EURO 2000)でも、ユーゴスラビアの鬼門となる。苦しみながらもグループリーグを勝ち抜いたユーゴだったが、結局は、決勝トーナメント一回戦で当たった優勝候補筆頭のオランダに、「6-1」という大敗を喫してしまったのだ。
ただこの大会でも、ピクシーの存在感は光り輝いていた。まず初戦の対スロベニア。ピクシーは、先発メンバーから外されていた。運動量の落ちたピクシーを中心にするよりも世代交代に賭けよう・・と、ボスコフ監督は考えていたということだが、その判断が裏目に出てしまう。チームの「コア」がいないことで、うまくリズムをつかめないユーゴに対し、スロベニアがペースを握り、先制ゴールまで決めてしまったのだ。
やはり、「まだ」ピクシーは欠かせない存在だ・・。ボスコフ監督がそう決断したのは、前半35分のことだった。そして、交代出場したピクシーが完璧なゲームメーカーとして機能しはじめたことで、ユーゴのサッカーがダイナミックに変容する。ユーゴビッチ、ミヤトビッチ、コバチェビッチなど、攻撃陣のプレーに、クリエイティブな発想、積極的なリスクチャレンジ姿勢が目立つようになったのだ。これこそ、「一人の選手がリズムを変えた!」といった場面ではあった。
この試合は、サッカー史に残るドラマチックな展開から、結局は「3-3」の引き分けに終わったわけだが、そこで、「3-0」とリードされたユーゴのドラマチックな同点劇を演出したのもピクシーだったのである。
この大会で、もっともピクシーの才能が輝いた瞬間。ボクは、それをスペイン戦に見ていた。ユーゴ先制ゴールのシーンである。
タテパスを受けたスペインの貴公子、ラウールがトラップに失敗したことで、ボールが転々ところがっていく。このルーズボールを最初に支配下に置いたのはピクシーだった。ユーゴ陣内の中央ゾーン。
すぐに前を向き、ドリブルに入る。背筋をピンと伸ばした自然体。美しい。後方からのプレッシャーにもかかわらず、瞬間的にピッチ全体の状況をイメージに刻み込む。そして決断していた。ピクシーの卓越した創造性が冴えわたる。
振り向いてドリブルをはじめた彼の前方には、「見かけ上」ではフリーのミヤトビッチがいた。ただその背後には、二人のスペインディフェンダーがパスを狙っている。ピクシーは感じていた。「ヤツへパスを出しても、それが届く瞬間にアタックされて簡単にボールを失ってしまう・・」
ほとんど同時に、ピクシーの脳内スクリーンには、ミヤトビッチとは逆サイドの状況が明確に映し出されていたに違いない。自分がドリブルする左側後方にはユーゴビッチが、そして左サイドライン際には、前方に広がる太平洋のようなスペースを狙うドルロビッチがいる・・。そこだ!
決断した後も、相手守備の視線と意識を引きつけるため、数分の一秒、ミヤトビッチへ向けてドリブルを続けるピクシー。そして次の瞬間、「シザース」ヒールキックでバックパスを決める。ボールは、迫りくる二人のスペイン人選手の間を見事に抜けてユーゴビッチへわたっていた。そのままピクシーは、イメージのなかの「次の展開」をなぞるように、最前線へ飛び出していく。左サイドのドルロビッチを起点にした最終勝負へ向けて・・
それは、ほんの1-2秒の出来事。世界サッカー史に残る至高のゲームメーカーの「イマジネーション」が、次元を超越する輝きを放った瞬間だった。
その後、まさにピクシーが描いていたイメージ通りに、ユーゴビッチから、左サイド前方に広がったスペースに走り込むドルロビッチへ、素晴らしいタイミングとコースのタテパスが通され、そこから、中央で待ちかまえるミロシェビッチとの勝負イメージが完璧にシンクロしたピンポイントセンタリングが上げられた。そう、ミロシェビッチが走り込む、二人の相手ディフェンダーの「間のスペース」へ向けて。
ミロシェビッチのヘディングゴールが決まったとき、このカウンター攻撃のきっかけを演出したピクシーは、「いつものように」こぼれ球を狙えるポジションまで、全力ダッシュで上がりつづけていた。
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ピクシーが、名古屋グランパスエイト、そして「J」において為した成果については、もう改めて語る必要もないだろう。
ボクは、プレーヤーとしての彼を、「理想的にバランスした天才」と表現したい。ピクシーこそ、本物の「良いプレーヤー」なのである。
常に自分が中心になって仕掛けを演出してやるという強烈な意志のもと、ボールのないところでのアクティブな動きをベースに、組み立て段階では、シンプルなパス回しで相手ディフェンス組織の「薄いところ」へボールを動かし、勝負所では、変幻自在のドリブルで守備ブロックを切り裂いたり、ディフェンダーの視線と意識を釘付けにしてしまうリスキーな「タメ」を演出するなかで決定的なパスを狙ったりする。
彼のルックアップ能力、そしてアイデアが詰め込まれた正確なキックに全幅の信頼をおく周りのチームメイトたちも、勝負所でピクシーがボールをもったら、ためらうことなく決定的スペースへのフリーランニングを敢行する。それも、何十メートル離れていようと・・。希代の天才パサーと、パスレシーバーたちが織りなす、勝負イメージが完璧にシンクロしたコンビネーション。美しい。
パス出しばかりではなく、チャンスとあらば、自らも「クリエイティブな無駄走り」を繰り返す。そしてもちろん、実効ある守備参加においても「闘う姿勢」を存分にアピールしつづける。自信と誇り、責任感、勇気を底流にした、攻守にわたるギリギリの「リスクチャレンジ」。真のリーダーとして、チームメイトたちに信頼されるわけだ。
まさに、全てのサッカー要素が理想的にバランスした最高のプロフェッショナル、ドラガン・ストイコビッチ。彼は、グランパスだけではなく、日本サッカー界全体にとっての「宝物」だった。
我々は、「本物の良いプレーヤー」というテーマについて彼が残した「イメージ遺産」を、世代を越えて伝承し、発展させていかなければならない。それこそが、『全力を出しきった』トッププロフェッショナルに対する「フェアな報酬」なのである。