そんな決定を見ながら、やはりイングランドには歴史がある・・ドイツでも同じような決定を何度も経験したことがある・・彼らは、そういう状況で「強行」した場合、その後に起きるコトについて大変な経験があるということだろう・・人命にかかわるコトだけじゃなく、ピッチ状態(次のゲーム予定)やその他の様々なコト・・オールドトラフォードまで足を運んだレッズファンや、ゲームを楽しみにして朝早く起き出したファンの方々の落胆は計り知れない・・なんてことを矢継ぎ早に思っていました。
とはいっても、この中止決定の背景が、例によっての「経済主導ファクター」ではなく、どちらかといえば、歴史になどに支えられた「スポーツ文化ファクター」によるものだと思えるから、ちょっと安心したりして・・。
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私は、レッズが先日のボカとの試合でコテンコテンにやられちゃったから、逆にこの試合が楽しみにしていました。「上」を体感すれば、それまでの「様々な殻」を破って吹っ切れたプレーができる・・次の守備に対するものすごく高い意識を背景にしたリスクチャレンジプレーも、相手のチカラが自分たちを上回っているからこそ、極限まで高揚させられるに違いない・・要は、このゲームを、それまでの主体的な限界イメージ(自らの思い込みによる限界イメージ!?)を超えるための素晴らしい学習機会(キッカケ)にすることができるかもしれない・・というわけです。私はそれを「トーナメントでの成長」なんて呼ぶことがあるのですが、そんな有意義な経験に対する期待があったのです。だからこそ、中止になったことがすごく残念・・。
ボカとの試合では、とにかく前半は何もできなかったですよね。ボカ・ジュニアーズは、日本で行われた新潟との親善マッチでは、(私は観ていないのですが・・)相手を完全に甘く見た無様なサッカーしかできなかったとか・・。だからこそ、同じ日本の「リーグ上位チーム」と対戦するフットボールネーションの超一流チームが、その試合では大きくモティベートされていたというわけです。それに、立ち上がり早々にPKまで決められてしまったのですからね(エメルソン)。そんな状況が、彼らのモティベーションを更に極限まで引き上げたというわけです。まあゴールはセットプレーからだったけれど、流れのなかでも、何度もレッズ守備ブロックを振り回していました。それに対して、まったく押し返せないレッズ。
一点をリードした後半は、エネルギーを温存したプレーに切り替えたボカ。たしかに、局面では、レッズ選手たちのプレーが「通用」するシーンもありましたが、でもそれをチャンスメイクにつなげることはまったくできない・・逆に、カウンター気味のワンチャンスを次々と決められてしまう・・。そんなふうに、コテンコテンにやられちゃったからこそ次のマンU戦では、「自らの限界に対する思いこみという殻」を破るような、攻守にわたる吹っ切れた積極リスクチャレンジプレーがみられる違いなと期待していたというわけです。でもまあ仕方ない・・。
オマケですが、先日ある雑誌に投稿した「レッズ後半の展望」というテーマのコラムも掲載しておきます。それではまた・・
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「いいじゃないですか、レッズは・・選手たちのプレーが活き活きとしてきている・・」
今シーズンが立ち上がった当初、私が信頼するジャーナリスト仲間がそんな印象を語っていた。活き活きとしたサッカー。選手たちからも、「そりゃ、これまでの規制がなくなったんだからサッカーが活性化するのは自然な流れですよね・・」という発言が飛び出していた。今シーズンのレッズがキャッチフレーズを掲げるとしたら、多分それはこのようになるだろう。規制と解放のダイナミックなバランス・・。
チームの解放マインドをリードするのは、もちろんギド・ブッフヴァルトとゲルト・エンゲルスのコンビ。彼らは、昨シーズンまでのガチガチの戦術サッカーから、より積極的にリスクへもチャレンジしていくような、自分たちが主体になったダイナミックサッカーへと選手たちのプレーイメージを解き放ったのである。
とはいっても、開幕後しばらくすると、選手たちの意識が解放方向へ「振れ過ぎる」傾向が強くなってしまう。
言われたことだけをやっていればいい・・それ以上、余計なことをするな・・。そんな戦術的な呪縛から解き放たれた今シーズンのレッズ選手たち。しかし、渇望していた自由を手に入れたにもかかわらず、そのバックボーンたるべき基本プレーが徐々におろそかになっていったのだ。自由を勝ち取り、それを維持するための大前提は、攻守にわたるボールがないところでの忠実プレーなど、チームワークという義務の遂行である。それこそが、チームダイナミズムの源泉なのに、それに対するレッズ選手たちの意識が希薄になっていったのだ。特に、ギドが標榜するプレスサッカーの体現にとって決定的に重要になってくる守備意識に翳り(かげり)が見えはじめたのが大きかった。
そのことは、中盤でのディフェンス姿勢に如実に現れてくる。相手ボールホルダーや次のパスレシーバーに対するチェイス&チェックが甘い。次のボール奪取(インターセプトやトラップ瞬間のアタック)を狙う姿勢だけではなく、協力プレスに対するイメージの描写も甘い。だから、個々の守備プレーが有機的に連鎖しない。だから、うまいタイミングでボールを奪い返せない。
その時点で私はこう考えていた。「今はまだ義務プレーと自由な解放プレーが不安定に揺れ動いているけれど、じきに収斂し、うまくバランスしてくるはずだ・・」。ただレッズサポーターの反応は素早く、そして厳しかった。彼らは、気力が感じられない甘いディフェンスに業を煮やし、満員のスタジアムを静まりかえらせるという強烈な刺激を演出してしまったのだ。見事な統率。そんなシーンは経験したことがない。レッズサポーターの意識の高さに舌を巻いた。またそこには、無気力プレーが目立っていたキャプテン山田信久を先発から外すという、ギド・ブッフヴァルトの積極マネージメントもあった。そしてそんな刺激が、義務プレーに対するチームの意識を再び活性化させることになるのである。
リスクチャレンジに支えられたダイナミックなプレスサッカーのバックボーンは、何といっても主体的な守備意識である。それは、互いに使い、使われるという基本メカニズムに対する深い理解をベースに、攻守にわたり自ら仕事を探しつづける積極プレー姿勢とも言い換えることができる。それに対する相互信頼があるからこそ、チャンスに恵まれた選手が、後ろ髪を引かれることなく攻め上がっていけるし、ボールがないところでのパスレシーブの動きも、最後まで全力で走り切ることができる。それがあってはじめて、攻撃のダイナミズムを高揚させられるのである。レッズ選手たちは、様々な刺激をぶつけられることで意識を高揚させていった。そして、攻守にわたって解放されたプレーイメージが有機的に連鎖しはじめる。
レッズのサッカーが発展ベクトルに乗っていることは、選手たちがもっとも強く体感しているはずだ。だからこそ、確信レベルの高揚とともにプレー活性化の善循環がまわりつづける。
ファンにとって、チームの進歩を実感できることほど楽しい瞬間はない。それも、チームが覚醒するプロセスにおいて、スタジアムサイレンスという抗議行動によって自分たちも一役買ったのだから尚更だろう。いま浦和では、チームとファンが一体となったエネルギーが拡充をつづけていると感じる。それこそ本物のサッカー文化。本場ヨーロッパを彷彿させるファンとの一体感に支えられた浦和レッズは、地域のアイデンティティーと呼べる社会的存在へと昇華しようとしているのかもしれない。
とはいっても、マリノス、ジュビロという二強の壁は厚い。彼らのレベルに至るまでには、まだまだ超えなければならない課題も多いのだ。しかし、いまのレッズの進歩スピードからすれば、二強とのギャップも急速に縮まっていくに違いないと思えてくる。期待できるコンテンツが詰め込まれたレッズ。自分の学習機会としても、とことんセカンドステージを楽しむつもりだ。