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- 2006_ワールドカップ日記(最終回)・・日本対ブラジルから抽出した「日本」というテーマ・・(NHKデータ放送&同HP連載コラムから)・・(2006年7月30日、日曜日)
- さて、そろそろ「充電」を切り上げて日本の現場に戻らなければ・・。
2006ドイツワールドカップでの湯浅のアクティビティーは、明日からハノーファーで始まるドイツ(プロ)サッカーコーチ連盟主催の「サッカーコーチ国際会議」が最後ということになります。この会議についても、内容と機会をみてレポートする予定です。ということで、このコラムで67回目となった「ワールドカップ日記」は、今日が最後ということになります。
私の「日本での復帰」は、8月9日に国立競技場でおこなわれる「オシム・ジャパン」のデビュー戦ということになります。あっと・・、オシムさんのチームですからネ、やっぱりトレーニングもしっかりと観察しなければなりませんよね。今から楽しみです。
さて、ということで、「日記」の最後としてふさわしいかどうかは分からないけれど、NHKデータ放送&同HPの連載で発表した「日本対ブラジル戦」コラムからテーマを抽出しようと思い、書きはじめたところです。フム・・。
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日本がブラジルに完敗を喫した。まさに完敗・・。フィジカルでも、テクニックでも、戦術的な発想でも、心理・精神的な部分でも、完全に凌駕(りょうが)された。これほど歯が立たないという内容の試合は本当に久しぶりではないだろうか。まさに「世界の壁」が立ちはだかったという感じ。
とはいっても、日本代表が本当に限界まで闘ったのかという視点では大きな疑問も残る。もちろんブラジルが相手となったら、欧州のフットボールネーションでもボールをクルクルと回されてしまうことも多いけれど、少なくとも彼らは、自分たちの誇りにかけてギリギリまで闘いつづける。忠実にボールや相手を追い、身体を寄せつづけることで、彼らが自由にプレーできないように粘り強い競り合いを仕掛けつづけるのだ。そして、ブラジル人がフラストレーションをため、動きが鈍ったところで、ここ一番の大勝負を仕掛けていくのである。
私はこれまでに何度も、ブラジルを相手に、格下のヨーロッパチームが粘り勝ちを収めたり、粘りの引き分けに持ち込むといった試合を観てきた。ただ日本代表は・・。
試合後に、グラウンド上に倒れ込んだ中田英寿が涙を流したと聞いた。3試合を通じ、彼ほど攻守にわたって走り回り、最後の最後まで全力を尽くして闘った選手はいない。
ブラジルとの試合を観戦した友人のドイツ人プロコーチもこんなことを言っていた。
「日本チームのなかで全力を出し切って闘っていたのはナカタ(英寿)だけだったな。他の連中のプレーからは、ギリギリまで闘うという強い意志を感じなかった。走り方がぬるま湯だったし、全力ダッシュも目立たなかった。でもナカタだけは、本当に持てるチカラを限界まで出し尽くしていたと思う。ブラジルにあれだけ押し込まれていたのに、気力が衰えることなく、守備でも攻撃でもチームをリードしようと奮闘していたつづけていた。大した選手だよ、本当に」。
中田英寿の涙には様々な意味が込められていたと思う。そのなかには、全力を尽くして闘おうとしなかったチームメイトに対する失望という意味も含まれていたと思われてならない。
たしかに日本は、技術的な面でも、戦術的な面でも、はたまたフィジカル的にも著しく発展し、フットボールネーションとある程度肩を並べられるところまできたと言える。しかしそれらは、「物理的」な要素にしか過ぎない。ギリギリまで緊張が高揚した状況における実際のグラウンド上のパフォーマンスを左右するのは、最終的には、心理・精神的な部分なのだ。強い(闘う)意志がバックボーンになければ、いくら物理的な能力が高くても、結局は持てる実力を発揮できないまま終わってしまう。そう、今回の日本代表のように・・・。
イレギュラーするボールを足で扱うという不確実な要素が満載したサッカー。だからこそ、リスクにもチャレンジしていくという積極的なプレー姿勢がなければ、決して発展ベクトルに乗ることはできない。逆に、リスクにチャレンジせず、逃げのパスなど、安全プレーをしていれば、決してミスが目立つこともないし、批判にさらされる危険も避けられる。我々コーチは、それを「アリバイプレー」と呼ぶのだが、フットボールネーションでは、そんな「深い事実」を見極めることができなければコーチ失格だとまで言われるのである。
とにかく、そのような消極的な「逃げ」のプレー姿勢だったら発展など決して望めないということは、サッカーの歴史が証明している確かな事実なのである。そんなことも、サッカーという(見た目には)単純な形式のボールゲームに内包された複雑なメカニズムの一端なのである。
ギリギリまで全力で闘い抜く強い意志。その視点では、ジーコの心理マネージメントが十分な成果をあげたとは言えない。監督の仕事は、人間の弱さとの闘いであり、時には瞬間的に選手たちに恨まれたり憎まれたりしなければならないというケースもある。もちろんその背景に、時が経てば、選手たちが、監督の正しさを理解するに違いないという確信があることは言うまでもない。その意味で、本当にジーコが選手たちの人間的な弱さと闘ったかどうか、私は疑問だ。
日本人の誠実な思いやりは、世界に誇れるものだ。それが日本という本当に気持ちの良い社会の基盤にある。ただしそれは社会生活においてのもの。
サッカーという、フィジカルコンタクトが前面に押し出される狩猟民族のスポーツでは、時として、そのマインドが大きな障害になってしまうこともある。その背反する心理メカニズムを本質的なところで理解し、プロセスしていくことこそが、日本サッカーの根源的な課題なのかもしれない。(了)
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聞くところによると、いま日本では、一部のメディアで、中田英寿がチームの和を乱したなどといった偏った議論が為されているとか。もしそれが本当だとしたら、まさしく本末転倒。中田英寿が目指したのは、ぬるま湯の仲良しクラブ的な雰囲気を、何とか、主体的な闘う意志が自然と高揚していくような実効ある心理環境へと修復しようとしたということだったんじゃないの?? 今回の日本代表には、2002ワールドカップでは明確にかもし出されていた「闘う雰囲気」が感じられなかったのは確かな事実だったからね。
日本代表チームには、コーチングスタッフやマネージメントも含め、一人も「刺激ジェネレーター」がいなかった!?
フットボールネーションの優秀なプロコーチは、例外なく、ある「シークレット・レシピ」を持っています。そのテーマは、意図的な攪乱。チームの雰囲気が「和み過ぎ」だと感じたコーチは、率先して(心理的な)問題を起こすことでチームの緊張感(様々な緊張関係)を活性化するということです。もちろん「許容範囲」のなかで・・。
個人事業主によって構成されたグループが、共通の目的(美しく勝利すること!?)を達成するために、個のプライドと組織メカニズムが擦り合わされるなかで発生してくる(Struggleなどの)様々な緊張ファクターを「糧」に成長していく。
もちろん「甘え」などが入り込むスキなど微塵もない。そこでは、様々な「妥協と昇華」が繰り返されるのだ。それは、様々な緊張ファクターが内包された「モノが分かった大人の調和」ってことか? まあとにかく、それこそが、本物のプロの世界の「あるべき姿」だし、それがあってはじめてプロ同士の信頼関係が構築されるということです。
ここで言いたかったのは、監督やコーチは、チームの雰囲気について、しっかりとした理想型イメージ(感性)を持っていなければならないということです。そんな「評価基準」があって初めて、より確かな現状認識ができるだろうし、「理想マイナス現状イコール課題」という方程式も、より実効あるカタチで成りたたせることが出来るというわけです。
ワールドカップ期間中に、中田英寿の引退宣言にビックリして書いた「ちょっと待ってくれよ・・コラム」。そこでも、主体的に闘う意志というテーマを取り扱いました。もちろんメインテーマは「日本という文化環境」。いかに日本文化の(社会生活にとって!)良いところを失わずに、狩猟民族のスポーツでギリギリまで闘えるだけのマインドを養うのかというのがメインテーマでした。
そして、またまた最後は「バランス感覚」という言葉に逃げ込んでしまうわけですが、とにかく、このテーマをしっかりとプロセスできること(実のあるディベートを展開し、そこで抽出されたエッセンスを着実に現場へ応用し、そこでトライ&エラー&フィードバックを繰り返すこと!)こそが、日本サッカーの発展のベースになると確信している湯浅なのです。
ところでオシムさん。代表監督の就任会見で出された質問に、ちょっと「気の流れ」を乱されたとか。「日本はトルシエから4年間、進歩しなかった・・どうやって2010年を目指すのか?」。まさにバランス感覚が欠如した質問じゃありませんか。どうして「白か黒か」になってしまうんだろうね。世の中は「グレー」なんですよ、グレー。我々は、そのグレーの明度や彩度を仕分ける(見分ける)作業に心血を注いでいるんですよ。だからこそバランス感覚が大事ということなんだけれどネ・・。
とにかく、「リスクチャレンジのないところに進歩もない」と言うオシムさんへの期待はとどまるところを知りません。彼は、世界との間にまだ厳然と存在する「僅差」の本質を、本当に意味で見つめ直すことの大事さを教えてくれるはずです。
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