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2008_こんな文章をプリントメディアで発表しました・・二面性パーソナリティー!?・・(2008年12月3日、水曜日)

唐突ですが・・

 拙著「日本人はなぜシュートを打たないのか?」の主要テーマである「日本人のリスクチャレンジ姿勢」について、それを部分的に深めた文章をプリントメディアで発表したので、メモ倉庫である私のHPにも載せておくことにしました。

 拙著「日本人はなぜシュートを打たないのか?」については、このコラムの最後を参照してください。

 文章の締めは、どうしても「だからコーチは・・」というニュアンスにならざるを得ないわけだけれど、そこでは、コーチが、ターゲットイメージとして目指していけそうな「コンセプト・キーワード」を編み出しました。

 一つは、サッカー的な「二重人格プレイヤー」の育成。そしてもう一つが、ある意味で背反する「性質」を高い次元でバランスさせられるような「二面性パーソナリティー」。まあ基本的には同じ意味だけれどネ。さて・・

 まあ、これまでの私の「主張のまとめ」という性格もありますかネ。ということで、二つのコラムです。

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(まずサッカーダイジェストで発表したコラムから・・)

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 「サッカーから自由を取ったら無に等しいよな。その自由を得るためにも、リスクへチャレンジしていくのはオレたちの義務なんだぜ・・」

 ドイツへサッカー留学していた当時に所属していたクラブでのこと。失敗が怖かったから、タテへの勝負パスを逡巡し、横パスに「逃げて」しまったことがあった。そのとき、タテのスペースへ走り込んだ味方選手に強烈な文句をぶつけられた。「何だよオマエ・・タテパスを出せたろ・・オマエのせいで、オレたちのチャンスが水の泡じゃネ〜か」

 そして練習後に、コーチから冒頭のお説教を受けたというわけだ。

 イレギュラーバウンドするボールを、身体のなかでは比較的ニブい足で扱うという不確実なサッカー。だから、瞬間的に状況が変化してしまう。そんな不確実なサッカーだからこそ、主体的に判断、決断し、勇気をもってリスクにもチャレンジしていかなければ何も生み出すことはできないのだ。イビツァ・オシムが言っていた。「リスクを冒さないところには進歩もない」

 ただ日本人は、責任を自ら背負ってリスクへチャレンジしていくことに慣れていない。その背景には社会の体質的な要素もあるから、そんな安全(安定)志向をサッカー向きに変えていくことは容易ではない。

 基本的には農耕民族である日本人。またそこには、島国ということで、互いに侵略を繰り返したら国全体が衰退してしまうという地政学的な要素もある。だから、様々な社会的バランスを意識することで、限られた資源を分かち合うという「誠実な協調性」が社会に深く浸透したと思う。そんな背景があるからこそ、人々は、機会の平等ではなく、結果の平等の方をより重要視するのである。

 社会全体を豊かにするために、連帯責任という発想を基盤に、滅私的に努力する姿勢が美しいとされる文化。そんな日本人の優れた社会性は、たしかに世界に誇れるものだし、「組織的なサッカー」という視点ではプラスの側面も多い。

 ただ逆に、組織としての全体的な機能性「ばかり」を中心に考えるあまり、問題に気付いていながら、それを自らの判断と行動で解決していこうとする積極的な「意志」に欠けるという主体性の不具合も生じる。

 問題に気付いていながら、どうせ誰かがやってくれるに違いないというアナタ任せの姿勢。それは、サッカーにとってマイナス以外の何ものでもないし、それを是正していかなければ、リスクチャレンジに対する「意志」が高揚していくはずもない。

 留学中の私も、ドイツのサッカー文化に揉まれるなかで、日本的なマインドのプラス面とマイナス面を整理せざるを得なかった。そして、日本的な協調性が組織プレーに資するプラス面と、多くの最終勝負シーンで決定的に重要になってくる、欧米の自己主張性向をエネルギー源とした個人勝負プレーを、ある程度は高みでバランスさせられるようになったと自負している。

 さてそこで、シュートというテーマだ。

 サッカーのなかで、もっとも失敗する確率の高いリスキーなプレーがシュートであることに異論を挟む方はいないだろう。だから日本人はシュートすることに消極的!? しかしそれでは、攻撃の目的を喪失しているのに等しい。攻撃の目的はシュートを打つことであり、ゴールは単なる結果にしか過ぎないのだから。

 外国人プレイヤーは、自分たちが奪ったゴールの5倍から10倍ものシュートを打つ。それに対して日本人は、2倍から3倍程度。「シュートの決定率ランキング」で日本人が上位を占めるのも当然ということなのだが、この数字にこそ、日本人の抱える心理的な課題の本質が隠されている。自己責任でリスクへチャレンジしていくことに慣れていない日本人・・。

 ここで取り扱うのは、スペースへ走り込んでパスを受け、足でもヘディングでも、ダイレクトで打つしかないという「強制的」なシュートシーンではなく、相手と一対一で正対した状況も含め、シュートだけではなく、ドリブル勝負やパスなど、様々なオプションが残されている最終勝負シーンである。

 その前提で、日本人が、様々な選択肢から、リスキーな勝負ドリブルやシュートへチャレンジしていくことへの「意志」が十分ではないというテーマを議論したい。

 個人の責任が明確になるリスクチャレンジプレー。その障害となる「失敗を恐れる」という後ろ向きの心理を「解放」するためにはどうしたらよいのだろうか。

 失敗を積み重ねることでしか発展は望めない・・とか、失敗は成功の母だ・・とか、そんな建前論的な美辞麗句を繰り返し言ったところで、実質的な効果があがるとは思えない。選手の心理を「解放」するためには、とにかく、それらの表現が秘めるコンセプトの正しさを、忍耐強く「体感」させつづけるしか方法はないのである。

 それがあってはじめて、優れた社会性という、組織プレーを機能させる上でポジティブな側面を維持しながらも、チャンスとなったら、同じ人物かと見まがうような、徹底した「エゴイスト」に変身できるようになると思うのだ。

 私は、それを「サッカー的な二重人格」と呼ぶ。優れた社会性と、エゴイスティックな個人主義。ある意味で背反する二つの態度を、高い次元でバランスよく併存させ、使い分けられれば、まさに鬼に金棒なのだ。

 欧米のコーチにとっての重要なテーマは、才能に恵まれた自分勝手な個人主義者を、汗かき守備やボールがないところでの忠実な動きといった組織プレーにも精進させることだが、逆に日本のコーチの場合は、組織プレーに「逃げ込もう」とする才能ある選手に、自己責任の個人プレー(リスクチャレンジ)にも積極的に取り組ませることが重要な課題になる。

 要は、現代サッカーが、攻撃や守備、組織プレーや個人プレーなど、全ての面においてバランスの取れたパフォーマンスを発揮できる「ポリバレントな選手」を求めているということなのである。

 さて、日本人選手の主体的なリスクチャレンジ姿勢を高揚させるというテーマ。その絶対的バックボーンである「意志」を高揚させることは、前述したように、それが社会的な体質と深く結びついているから容易ではない。

 サッカー的な二重人格プレイヤーの育成。そのプロセスでは、コーチの並はずれた忍耐力と優れたバランス感覚がもっとも大事な要素になってくるだろう。もちろん、コーチ自身が「解放」され、すべての考え方や感覚を柔軟に「使い分けられていること」も含めてである。

 コーチは、一つのプレーの失敗や成功という「結果」ではなく、あくまでも「プレーの背景にある意志の内容」を分析して評価し、その高揚に取り組んでいかなければならない。志向すべきベクトルを明確に意識させ、無責任な蛮勇ではない、実効あるリスキープレーにチャレンジさせるのだ。

 そのプロセスでは、意識の低い無責任なミスを叱責するのと同時に、失敗したプレーであっても、そこにポジティブで積極的な意志が込められていたならば、結果として起きたミスをも容認し、その意味合いをチームに深く浸透させなければならない。

 コーチは、組織プレーに徹するところと、勇気をもってリスキーな個人勝負を仕掛けていくべき状況に対するしっかりとしたイメージを持ち、その個人勝負では、意識の低い無責任な蛮勇プレーと、勇気をもった本物のリスクチャレンジプレーを明確に区別できていなければならないのだ。

 そんなプロセスを経ることではじめて、チームのなかに、失敗を恐れずにリスクへチャレンジしていくことが当たり前(自由を得るための義務!)という雰囲気が醸成されていくのである。

 シュートという究極のリスクチャレンジ。コーチは、それに対する「意志」を、日本という集団主義的な社会体質のなかで効果的に高揚させていかなければならない。だからこそ彼らは、優れたバランス感覚に裏打ちされた忍耐力を、日々磨きつづけなければならないのである。

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 ちょっと長かったですかネ。次は、(財)労務行政研究所という組織が発行している「労政時報」の随想プラザというコーナーで発表したコラムです。

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「何をやっているんだ。安全プレーばかりじゃ何の役にも立たないゾ!」

 イレギュラーするボールを、身体のなかでは比較的ニブい足でコントロールするサッカー。瞬間的に、予測とはまったく違う状況へと変化してしまうなど、不確実なことこの上ない。だから、最終的には個人の判断力と決断力が問われることになる。主体的に考え、勇気をもってリスクにもチャレンジしていかなければ何も生み出すことはできないのがサッカーなのである。

 私がドイツへサッカー留学した当初、安全にプレーしようとし過ぎる消極的な姿勢に、仲間から、冒頭のような強烈な文句を飛ばされたものだ。リスクにチャレンジしなくても、決められた戦術的タスクさえ無難にこなしていれば、消極的なプレー姿勢が目立つことはないしミスも避けられる。ただ、そんな「逃げの」安全プレーばかりだったら、チームにとって価値のない選手になってしまうのだ。

 不確実であるからこそ最後は自由にプレーせざるを得ない。そこで「逃げではない」着実なプレーを基盤に、チャンスとなったら、勇気をもって当たり前のようにリスキーなプレーに「も」チャレンジしていける。サッカーでは、蛮勇ではなく、そんな高度にバランスの取れたプレー姿勢が求められるのである。

 要は、気持ちの問題。自由にプレーせざるを得ないからこそ、「意志」によってプレーの内容と価値に雲泥の差が出てきてしまうのだ。サッカーが、究極の心理ゲームだと言われる所以である。

 しかし、「組織が優先する」という集団主義的な考え方をベースに教育された日本人は、主体的に判断、決断してリスクへチャレンジしていくことに慣れていない。それはそうだ。日本の教育では、自立した自己主張を発展させるという目標設定はとても希薄なのだから。

 とはいっても、その日本の教育が、誠実さと協調性を基盤にした優れた社会性を育んでいることも確かな事実。その社会性は世界でも高く評価されているし、日本が得意とする組織サッカーを支えるもっとも重要なバックボーンであることは言うまでもない。

 しかし、シュートに代表される「リスキーな自己主張プレー」となると、途端に日本の存在感が薄れてしまう。それが、決定力が低いという日本サッカーが抱える課題の根底にある。組織プレーだけでは勝てないのもサッカーなのである。

 組織マインドと自己主張。考えてみれば、そのテーマは、世界的な大競争に立ち向かっていかざるを得ない不確実な現代社会にも通じるものがある。そこでは、着実な調和行動だけではなく、自ら考え、チャンスを逃さずに、自分勝手ではない自立したアクションを起こしていけるような積極姿勢「も」より強く求められているのだ。ただ現実は・・

 私は「セルフ・モティベーション能力」と呼ぶのだが、チャンスとなったら、自分自身を奮い立たせてリスクにもチャレンジしていけるような自信に裏打ちされた自己主張。いま日本では、サッカーだけではなく、社会生活でも「それ」が求められているのだと思う。

 サッカーにおいても現代社会でも、日本特有の優れた社会性(ステディーな組織プレー)を高みで安定させながら、必要に応じて強烈な自己主張(リスクチャレンジプレー)も前面に押し出していける。そんな、ある意味では背反する二つの「性格」を高い次元でバランスさせられたら・・

 高みで釣り合う「二面性パーソナリティー」とでも呼べるだろうか。それを実現するためには、まず何といっても組織体質の改善に取り組まなければならないだろう。古い(日本的な)心理パラダイムの解放と「正しい」心理環境の整備。それである。

 不確実性が一般社会と比べようがないほどシビアなサッカーでは、それこそが死活的に重要なテーマになってくる。まあ、とはいっても日本では、自己主張の発展の方により重きを置かなければならないわけだが・・。

 チームの体質改善プロセスでは、もちろん監督がすべてを掌握する。それが、監督によってチームがまったく別物になると言われる所以だ。選手のプレーは、監督(そのパーソナリティー)を映す鏡なのである。

 監督は、チームの雰囲気を、リスクチャレンジなど当たり前という前向きなものへと高揚させていかなければならない。そのために、例えば、リスクへチャレンジしたときのミスと、逃げのプレー姿勢だからこそ起きたミスでは、その対応をまったく違ったものにするなど、メリハリの効いた様々な工夫を凝らさなければならないのである。

 そう、首尾一貫したチームの価値観をベースに、安定した組織プレーのなかで、チャンスとなったら、蛮勇ではない正しい勇気に支えられたチャレンジが自然と出てくるという組織体質への脱却を目指して。

 私は、そんな監督の仕事の本質を、人間の弱さとの闘いだと表現することにしている。監督は、選手に自分の弱さと対峙させることで現実を直視させ、協力してその改善に立ち向かわなければならない。そのためにも監督は、常に、正しく評価できる「眼」を磨きつづけなければならないのである。

 我々プロコーチは、それらすべての要素を内包する「監督のウデ」を称して、指先のフィーリングなどと呼んだりする。言うまでもなく、その絶対的なバックグラウンドは、高い学習能力に支えられた優れたパーソナリティーなのである。

 不確実であるからこそ、最後は、主体的に、そして自由に、リスクへも積極的にチャレンジしていかなければならないサッカー。私は、それを、21世紀の日本社会におけるイメージリーダーになり得る社会的な存在だと言い切ることに躊躇しない。

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 ところで、拙著「ボールのないところで勝負は決まる」の最新改訂版が出ました。まあ、ロングセラー。それについては「こちら」を参照してください。

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 ということで・・しつこくて申し訳ありませんが、拙著『日本人はなぜシュートを打たないのか?(アスキー新書)』の告知もつづけさせてください。その基本コンセプトは、サッカーを語り合うための基盤整備・・。

 基本的には、サッカー経験のない(でも、ちょっとは興味のある)一般生活者やビジネスマン(レディー)の方々をターゲットに久しぶりに書き下ろした、ちょっと自信の新作です。わたしが開発したキーワードの「まとめ直し」というのが基本コンセプトですが、書き進めながら、やはりサッカーほど、実生活を投影するスポーツは他にはないと再認識していた次第。だからこそ、サッカーは21世紀社会のイメージリーダー・・。

 いま「六刷り」まできているのですが、この本については「こちら」を参照してください。また、スポナビでも「こんな感じ」で拙著を紹介していただきました。

 蛇足ですが、これまでに朝日新聞や日本経済新聞(書評を書いてくれた二宮清純さんが昨年のベスト3に選んでくれました)、東京新聞や様々な雑誌の書評で取り上げられました。NHKラジオの「著者に聞く」という番組で紹介されたり、スポナビ宇都宮徹壱さんのインタビュー記事もありました。また最近「こんな」元気が出る書評が出たり、音声を聞くことができる「ブックナビ」でも紹介されたりしました。

 




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