The 対談


「The 対談」シリーズ_第14回目・・アマル・オシムとの対話・・(2008年7月9日、水曜日)

雑誌『Japan Soccer(コスミック出版)』の企画で、元ジェフユナイテッド監督アマル・オシムとディベートする機会がありました。彼とは波長が合うから、数時間にわたった話し合いは、興味深く、刺激的なものでした。

 そこでのテーマは広範にわたったわけですが、『Japan Soccer』で発表した文章を、わたしのHPでも(もちろん私自身のデータベースとして)公開することにした次第です。

 とても長い文章だから「分割」しようかなとも思ったけれど、まあ、いいか・・ということで、「エイヤッ!」っと一挙に掲載しました。休みながらお読みいただければ幸いです。

 この対談は、アウェーでのバーレーン戦(3月27日)の後というタイミングで行われました。それでは・・

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 「日本サッカーは、かなりのスピードで進歩しているよ。でも、世界のトップネーションを本当の意味でキャッチアップするためには、まだまだ大きな壁が立ちはだかっている。その壁の、もっとも分厚いところは、多分メンタルだろうな……」

 昨シーズンを最後にジェフ千葉と袂を分かったアマル・オシムが、冷静に日本サッカーを分析する。

 ご存じのように、アマル・オシムは、実父であるイビツァ・オシムの日本代表監督就任に合わせ、それまでのコーチからジェフ千葉の監督に昇格した。プロチームの監督が、親から子に受け継がれる。プロにはそぐわない世襲というイメージがついて回るし、アマル・オシムにとっても、日本での監督キャリアの最初から、常に「色メガネ」で見られるなかで仕事をスタートしなければならないという厳しい状況だった。

 あまり知られてはいないが、アマル・オシムは、故郷ボスニアのジェリェズニチャール・サラエボにおいて、選手としてだけではなく監督としても成果を挙げている。

 1998年に現役を引退した後、2年間のユース指導を経て、2000年にトップチームの監督に就任したアマル・オシムは、2年連続で、ボスニアのトップリーグを制覇した。また2003年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ・フットボール・カップにも優勝を収めた。その間、UEFAチャンピオンズリーグやUEFAカップの予選ラウンドも経験している。

 2003−04年シーズンには、チームが不振に陥り、リーグの途中で解任されることになるわけだが、一つのチームの盛衰プロセスを指揮した経験は、プロコーチにとっての確かな財産と言えるだろう。

 実際、ジェフ千葉の監督に就任してからも、たしかに成績は振るわなかったけれど、サッカーの内容では、攻守にわたり、考えながらリスクへチャレンジしていく姿勢をしっかりと発展ベクトル上に維持するなど、確かな一歩は記した。ジェフ千葉は、その年、ナビスコカップを制している。

 結局、2007年シーズンを最後にジェフを離れることになったアマル・オシム。これまでの4年あまり、現場で日本サッカーを観察しながら様々な考えをめぐらせていた。もちろんイビツァ・オシムからは、戦術的なテーマだけではなく、哲学的な部分でも深く影響を受けていたことだろう。

 そんな彼と、日本サッカーと世界トップとの間に厳然と横たわる「最後の僅差」をいかに縮めていくのかという錯綜するテーマを掘り下げた。

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 「アマルが言うように、日本サッカーが急速に進歩したのは誰もが実感していることだよな。ドイツの友人たちも、日本に対する認識が急激にアップしたと言っている。それを支えたバックボーンのなかでもっとも大きかったのは、Jリーグというプロサッカーが出来たことだけれど、それにしても、10?15年という短い時間スパンにしか過ぎない。とにかく、これほど急速に発展したことには、オレ自身も正直に驚いているんだ」

 「そうだよな。オレが日本に来てからも継続的に進歩しているしね。以前は、意図なく……まあ、言われたとおりに動くような受け身のプレー姿勢の方が目立っていたけれど、それが今では、考えて……というか、具体的な意図と強い意志をもってプレーできるようになってきていると思う」

 「それは、選手たちの自己主張のチカラがアップしたということだろうか……」

 「まあ……たしかにアップしているとは思う。でも、課題も山積みだ。全体的には発展しているけれど、細部に目をやったら、個人的な才能が失われてしまうケースもまだまだ多いと思うんだよ。中田英寿や中村俊輔は、大いなる例外ということだな。日本サッカー界に潜在する才能が、自己主張が足りないこと(メンタルが弱いこと)で伸び切れず、中途半端な状態で消えていってしまう……。そのことには心が痛むよ」

 それは、フットボールネーションの評価基準をベースに、現場において常に問題意識を持ちつづけた者だからこそ言える重い言葉だった。彼は、日本が生み出す才能の多くが、真に覚醒することなく停滞している現状のことを言っている。そこにこそ、日本と世界との間に厳然と立ちはだかる「壁」の本質が潜んでいる。

 私も、本場フットボールネーションとの「最後の僅差」というテーマを持ちつづけているし、読売サッカークラブでコーチをやっていた当時も、そのギャップを埋めていくための可能性や方法にアタマをめぐらせたものだった。ただ最後は、社会文化的な環境に大きく影響される心理・精神的な「壁」にはね返されることで、「まあ、日本はまだ時間が掛かるよな……」という焦燥感に包まれるのが常だった。

 アマル・オシムもまた、選手の野心をかき立てることで「最後の僅差」を縮めていこうとするテーマに実際的に取り組んだ。もちろん、周りの雰囲気に流されて満足してしまうことなく、粘り強く「まだ出来る……もっと選手たちを発展させられる……」という反骨の向上心を持ちつづけながら。それこそが、プロコーチとしての矜持である。

 そんなチャレンジャブルな姿勢を持ちつづけるコーチがいる一方で、保守的な体制のなかで、のうのうとぬるま湯に浸かっているような(その体制を維持することの方に腐心するような)本末転倒のコーチもいる。サッカーコーチの本質的な仕事は、突き詰めれば、自分自身も含めた人間の弱さとの闘いなのに……。

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■「フレッヒハイト」が欠けている

 「たしかに日本人の戦術的な発想やスキルは大きく向上したと思うし、それを基盤にサッカーも急速に進歩した。それでも、根本的なところでは停滞気味の部分が多いことも確かだよな。物理的なところではレベルアップしたけれど、心理的、精神的な部分では、まだまだ課題が山積みだしさ。最初にアマルが、世界との間には、メンタルという壁が立ちはだかっていると言ったようにね。でもそれは、日本の生活文化的な環境も背景にあるから、乗り越えるのは難しい……」

 そんな私のアプローチに対し、肩をすくめたアマルがつづける。

 「でも、粘り強く取り組んでいくしかないじゃないか。大事なことは、日本には、乗り越えていかなければならないメンタル的な課題があるという認識を常にもっていることだと思う。ドイツ語に『フレッヒハイト』という表現があるよな。日本人に欠けているのは、まさに『フレッヒ』なプレー姿勢だと思うんだよ」

 アマル・オシムとの対談はドイツ語で行った。ドイツは世界に冠たるフットボールネーションの一つ。だから、サッカーのプレーに関する表現も発達している。ある表現を使うだけで、それがどんな現象を意味しているのか、微妙なニュアンスも含めて即座に共通の理解を得ることが出来るのだ。ドイツには、そんなサッカー的表現が多いのだが、その一つが『フレッヒハイト』なのである。それは名詞。形容詞は『フレッヒ』ということになる。

 それは、大胆さ、不適で厚顔(ずうずうしい態度や姿勢)、ときには不遜な態度とか、謙遜の対極にあるような思い上がった態度などのニュアンスで使われる。

 例えば、味方が動きながらパスを要求しているのに対し、「ウルサイ! オレが勝負するんだ!」と、後ろ髪を引かれることなく自らドリブル勝負を仕掛けていったり、「オイ、動け!」など、大声で指示を飛ばしながら、自分が中心になってコンビネーションを仕掛けていく等、ある意味では自己中心的プレーなどとも言えるだろうか。なるほど、フレッヒハイトね〜。

 「サッカーでは、そんな『フレッヒ』なプレー姿勢も必要なんだよ。もちろん、そればかりだったら問題の方が大きくなるけれど、そんな、怖いもの知らずの大胆な態度が、勝負の行方を左右する決定的要因になることが多いのも確かな事実なんだ。そんな『フレッヒハイト』だけれど、中東の連中については言わずもがなだし、韓国人や中国人、オーストラリア人にしても、そんな自己中心的な文化を持ち合わせているよな。それに対して日本人の場合は、特にその部分が弱いと感じるんだ」

 アマル・オシムは、そんなことも、日本人選手にとって「本物のブレイクスルー」が容易ではないことの背景にあると考えている。

 「日本人は、自分を解放することが上手くないと思うんだ。やりたいことは分かっているのに、その欲望を解き放つことができないから実際の行動につながり難いとかさ。もちろん、程度をわきまえた解放のことだよ。それが、上手に自分を解放すると言った意味なんだけれど、まあ、そのさじ加減も難しいテーマだね……」

 なかなか良い表現だ。その発言に触発され、私の口からも言葉がほとばしり出る。

 「そういうことだと思うよ。欲望を解き放つためには、責任を負う覚悟が必要になってくるわけだけれど、日本人は、一人で責任を負うことに慣れていないからな。とはいっても、欲望を簡単に解き放ったりしないところが、日本人の優れた社会性のベースになっているという側面もあるけれどね。ところで、アマルは、ジェフの選手を解放して『フレッヒ』にプレーさせるために、どんなやり方をしていたんだい?」

 「そりゃ、もう、言いつづけるしかないよ。問題を発見したら、そのままにするんじゃなく、一度プレーを止めるなどメリハリを付けながら、とにかくしつこく問題点を指摘するんだ。もちろん、選手のパーソナリティーや状況に応じて、強く言ったり、ゆっくりと説き聞かせるように話し掛けたりしながらね」

 アマルがつづける。「もう一つ、オレのときは、日本人を引っ張っていけるだけの能力を備えた外国人選手がいないという難しい事情もあった。もちろんストヤノフはいたけれど、結局はあんなことになってしまったしな……(編集部注:07年シーズン途中で、アマル監督を批判したとしてクラブから契約を解除された)。まあ、基本的に日本人選手だけである程度の成績を残せたことには満足しているし、誇りを持っているよ」

 たしかに、外国人のパーソナリティーが日本人選手に与える影響は大きい。私が読売サッカークラブのコーチをやっていたときには、ジョージ与那城、ラモス瑠偉といったビッグパーソナリティーがいた。今でも、彼らが日本人選手に与えた「自信」には計り知れない価値があったと思っている。

 当時の日本サッカーリーグで異彩を放っていた読売サッカークラブは、企業お抱えスポーツという中途半端な他の福利厚生クラブに対し、実質的にはプロチームという特異な立ち位置にいた。とはいっても、いくらプロだからといって、選手たちが日本的なマインドから簡単に解放されるはずがない。

 そこで、日本人選手たちの感性を強烈な刺激で研ぎ澄ましながら自信を与え、プロとしての自覚を持たせたのが、ジョージ与那城であり、ラモス瑠偉だったのである。

 ジョージとラモスに対する依存度は、物理的なものだけではなく、心理・精神的にも、とてつもなく大きかった。彼らが欠場したゲームでは、純粋に戦術的なものだけではなく、自信などの精神的パフォーマンスも如実にダウンしたものだ。ただ、そんな心理の二重構造にしても、選手の自覚レベルが高まっていくにしたがって徐々に解消されていった。そして読売サッカークラブは、日本リーグにおける押しも押されもしないプロ集団として一時代を築くことになるのである。

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■リスクを冒すプレー姿勢

 ハナシが逸れてしまった。そんな、優れた外国人の「心理ドライブ・フォース」を持ち合わせていなかったアマル・オシムは、選手たちの意識を高めるために、粘り強く指摘しつづけるしかなかったというのだ。

 「ジェフの選手は、オレの下でも着実に発展していったと思う。そこでは、しつこく、厳しく要求しつづけることに大事な意味があった。逆から言えば、そこでオレの忍耐力も試されたわけだ。そんなマネージメントがうまく機能したからこそ、ボールがないところでの仕掛けの動きも含め、しっかりと考えて走りながらスペースを使えていたということだ。今でも、彼らの闘う意志を、高いレベルで安定させられたことを誇りに思っているよ」

 アマルの表情が自信に満ちていく。

 「それと、もう一つポイントがあるな。それは、選手を使いつづけたことだ。ミスに対して厳しい批判や指摘を繰り返しながらも、彼らを信頼して使いつづけたんだ。とくに昨シーズンは工藤、下村、新居など、ミスに対して厳しい批判や指摘を繰り返しながらも、彼らを信頼して使い続けたんだ。もっとも、ウチのチームには、そんなに多くの選手オプションがあったわけじゃないけれどね……(笑)」

 プレーの内容にかかわらず選手を使いつづけるということには、心理マネージメントにおける微妙なニュアンスが内包されている。彼が言わんとすることをまとめたら、こんな風になるだろうか。

 彼らは、チームの中では秀でた才能を有しているし、人間的にも信頼に足る選手たち……インテリジェンスのレベルも高い……自分自身が失敗したりミスしたことを、しっかりと感じ、覚えているからこそ「自戒」がある……オレは、そのことに対する確信があるからこそ彼らを使いつづけた……そんなオレの信頼に対して、彼らも、全力で積極プレーを展開するという「誠意」をもって応えてくれた……。

 とはいっても、そんなジェフにしても、また他の「J」クラブ、はたまた日本代表にしても、世界トップを基準にした「攻守にわたる主体的な積極アクション」という目標イメージからすれば、取り組むべき課題が山積みであることは論をまたない。

 そこでのメインテーマは、日本的な枠組みからの「解放」ということになるだろうか。そう、安心、安全、安定を志向しすぎる日本的な(集団主義的な!?)感性からの解放。

 アマルが言う。「日本人は、言えば走る。忠実に走ることに対するモティベーション自体は高いと思うんだよ。でも、特に緊張感が張りつめたゲームでは、チャンスを見つけ出し、リスクをいとわずにアクションしていくような解放されたマインドが大きくダウンしてしまうことが多い。だからこそ監督は、考えながら走るという積極的なプレー姿勢を確固たるレベルまで押し上げていくために要求しつづけなければならないんだ」

 「そう……アマルが、ジェフで忍耐強くつづけていたことだよな。でも、世界トップとの最後の僅差を縮めていくのは、そう簡単じゃない。ここら辺で、そろそろ、アマルも何度か触れていた本題に入っていくことにしようぜ。そう、世界トップとの最後のギャップを埋めていくために、いかにメンタルを強化していかなければならないのかというテーマのことだ。言い換えれば、どうすれば、選手たちを、より積極的に、より『フレッヒ』にプレーさせられるのかということになる。アマルは、しつこく指摘しつづけることが大事だと言ったけれど、もっと具体的に、何を、どのように要求していくべきかの議論に入っていきたいんだ」

 そんな私のアプローチに対して、アマルが即座に反応する。

 「そりゃ、勇気をもってリスクを冒していくプレー姿勢だよ。それを粘り強く要求しつづけるんだ。前にも言ったけれど、日本人は冒険することが苦手だからな。リスキーな勝負を仕掛けていくには勇気がいるし、その後には、必ずバックアッププレーに対する責任も生じてくる。だから、強い気持ちでプレーしなければ、どこかで必ず破綻する。でも、別な見方をすれば、だからこそ、リスクへチャレンジしていくことほど効果的なメンタル強化トレーニングはないとも言えるよな」

 「そうそう。サッカーは、イレギュラーするボールを足で扱わなければならないから次に何が起こるか分からない。だから選手は、常に自分自身の判断と決断で、勇気をもってリスクを冒して行けなければならないということだよな。それに対する意志が希薄だったら、世界を目指したブレイクスルーを望むこと自体がおこがましい。そう考えてみると、たしかに、リスクチャレンジほど効果的なメンタルトレーニングはないかもしれないな」と、私。

 大きく頷いたアマルがつづける。「日本人は、フィジカル的には限界があるけれど、共同作業に対するマインドは高いから、やはり組織プレーを中心に据えるべきだよな。だから具体的なリスクチャレンジは、ボールがないところでの効果的な動きが中心的なテーマになるだろうな。もちろん勝負ドリブルとかタメとかいった個人のリスクチャレンジも大事だけれど……」

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■外国人監督のカリスマ性

 そこまでハナシが進んだところで、私は、一つの具体例を挙げることにした。

 「例えば、前にスペースがあるという状況を考えてみよう。ものすごく状況を単純化するけれど、そこで、自分がマークするべき相手選手を放り出してスペースへ押し上げていった場合、その相手選手がフリーで残ってしまうというケースのことだ。もちろん、攻めていく途中で変なカタチでボールを奪われたら、自分が放り出したフリーな相手を経由してカウンターのピンチを招いてしまう」

 そこで一度アマルを見る。彼の目には納得の笑みが浮かんでいた。

 「そんな状況でも、スペースへ抜け出していけと言うかどうかがポイントだけれど、ギド・ブッフヴァルトとも、そのことについて話し合ったことがある。彼は、行かせないのは不自然だし、そのことでチーム全体の攻撃性が地に落ちてしまう危険だってあると言っていた。オレもそう思うし、そこで行かせることが、監督の本質的な仕事なんだと思うんだよ。コーチに挑戦的なマインドがなければ、日本人のメンタルを進化させられるはずがないからな」

 そこから、アマルがハナシを引き継いでいく。

 「その状況で、もし監督が、次の守備でピンチに陥ることを心配して行かせないとしたら、それはサボタージュに等しいことかもしれない。とはいっても、無計画な蛮勇じゃダメだぜ。チームのバランス意識がしっかりとしていなければ、次のディフェンスでは確実にポジショニングや人数のバランスが崩れ過ぎてしまうからな」

 彼もまた私の目をのぞき込み、そして話しつづけた。

 「相互に信頼し合えるような環境を整備するのも監督の優れた手腕のうちだと思うんだよ。それがあってはじめて、吹っ切れたリスクチャレンジが本物の効果を発揮するというわけさ。ただ、どちらにしても、リスキーなプレーでは個人が責任を負うわけだから、強いメンタルが要求されるという本質は変わらないよな。そう、リスクチャレンジは効果的なメンタルトレーニングなんだよ」

 「まあ、詰まるところ、リスクをとるとらないは指揮官の姿勢で決まるということかな」と、私。

 「そう、まさにそういうことだな。ところで、監督について、一つだけ確認しておかなければならないことがあるんだ。それは、まったく同じ内容でも、日本人監督が言うのと、外国人監督とでは、なぜか日本人選手の行動に違いが出てくるということ。外国人監督が言った方が、選手たちの行動がよりシリアス(本気)になることが多いんだよ。もちろん、日本人監督でも、時間を掛ければ、同じレベルの影響力を発揮できるようになるとは思うけれど、そこに到達するまでには大変なエネルギーと長い時間が必要になってくるだろうな」

 「アマルが言わんとしている意味は分かる。でも、いったい何がその背景にあると思う? 例えば、日本人は、まだまだフットボールネーションに対するコンプレックスを克服できていないとかさ。まあ、その意味合いも含むんだけれど、カリスマ性に大きな差があるとかね」

 「そうだな……。コンプレックスについては、うまく実感できないけれど、カリスマ性については、たしかに差異があるとは思うよ。まあ、歴史や文化の違いとでも言うかな……。日本人か外国人に限らず、カリスマ性のある監督が指揮を執れば、選手は、彼の言うことをスムースに受け容れ、全力で行動しようとするだろうし、自分の行動がいつも正確に観察されているという緊張感を持ってプレーするようにもなるだろう。そこにも、監督のウデと呼ばれるモノの本質が潜んでいるのかもしれないな」

 カリスマ性。その定義は簡単ではないけれど、広辞苑によれば、英雄や予言者などに見られる、超人間的、非日常的な資質などとされる。要は、カリスマ性とは、人を動かす並はずれたチカラのことだ。

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■岡田武史の評価をめぐって

 それでは、イビツァ・オシムから日本代表を引き継いだ岡田武史についてはどうだろう。そのテーマについて、ちょっとクリティカルにアプローチしてみた。

 「岡田武史がチームを引き継いでから既に5カ月近くが経過したよな。その間の彼の仕事内容だけれど、主体的にリスクへチャレンジしていくというプレー姿勢については、どちらかといえばネガティブな評価の方が先に立つ。要は、チームの活力が減退したという印象の方が強いということなんだ」

 そこで一度言葉を切った。アマルは、表情を変えずに私の次の言葉を待っている。

 「日本代表が果たさなければならないミッションには、大きく分けて二つあると思う。一つは、もちろん、勝つこと。そしてもう一つが、日本サッカーのイメージリーダーとして、日本代表チームが進化していることを周りが体感できるような『力強いメッセージ』を放散できること。実際には、社会全体が、希望や期待を抱けるようなエネルギーを放散することの方がよっぽど大事なミッションかもしれない。その意味で、今の日本代表チームは、どちらかといったら停滞気味という印象の方が強いと思うんだ。それは、岡田武史のカリスマ性が足りないからだとは思わないか?」

 そんな私のアプローチに対して、アマルが短く答えた。

 「我々外部の人間には、オカダがどのような仕事をしているのか正確に分からないから、コメントなど出来るはずがないよな。とはいっても、バーレーン戦の内容が良くなかったことだけは言えるよ。それについては、誰もが同じ印象をもっていたはずだ。それは、交通事故的な出来事だったと思うよ。でも、交通事故を繰り返すことは許されない。日本代表は、もっと良いゲームが出来るキャパを有しているはずだからな」

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 イレギュラーするボールを足で扱うことで瞬間的に状況が変化してしまうサッカー。そんな不確実性こそが、サッカーというボールゲームの根源的メカニズムである。そしてそれは、選手一人ひとりに対して、主体的に判断、決断し、責任をもってリスキーなプレーにもチャレンジしていくことを要求する。石橋を叩いて渡るなどといったプレー姿勢では、結局は何も生み出すことは出来ないのだ。

 その考え方を基礎にしているからこそ、私は、サッカー監督の本質的なミッションを、人間の弱さとの闘いであると定義することをいとわない。監督は、選手たちに、自らが内包する弱さと対峙させ、それを乗り越えることで、リスキーなプレーにも積極的に取り組んでいけるようにサポートするのだ。だから監督自身も、優れた挑戦者のマインドを持ち合わせていなければならないのである。

 選手は、自分自身の弱さを克服してはじめて、本当の意味の「自由」を謳歌することが出来る。そして、そこで培った強い意志こそが、日本と世界との間に立ちはだかる最後の僅差を縮めていくための唯一の道なのだ。

 よく使われる表現だが、意志さえあれば、おのずと道が見えてくる……のである。

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 さて、いかがだったでしょうか。

 話し合われたテーマの多くは、これまで(わたしが)繰り返し取り上げたものだったわけですが、対話を通すことで「協力して」掘り下げることによって(弁証法的なアプローチ!?)またまた新しいニュアンスが見えてくるじゃありませんか。

 イレギュラーするボールを足で扱うことで最終的には自由にプレーせざるを得ないサッカー。また(形式的には!)本当にシンプルなボールゲームであるサッカー。だからこそ(!?)様々な要素が絡み合う。

 だからこそ、ボールを奪い返すという守備の目的と、シュートを打つという攻撃の目的を達成するために積み重ねられる「実際のプレー」の背景には、ものすごく広範で深遠な要素が複雑に影響し合っているということです。だからこそ面白い。だからこそ、その魅力が尽きることはない。

 サッカーを、人生における(哲学的な!?)探求オブジェクトの一つとして設定してよかった・・。いま、心からそう実感しています。

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 ということで・・しつこくて申し訳ありませんが、拙著『日本人はなぜシュートを打たないのか?(アスキー新書)』の告知もつづけさせてください。その基本コンセプトは、サッカーを語り合うための基盤整備・・。

 基本的には、サッカー経験のない(でも、ちょっとは興味のある)一般生活者やビジネスマン(レディー)の方々をターゲットに久しぶりに書き下ろした、ちょっと自信の新作です。わたしが開発したキーワードの「まとめ直し」というのが基本コンセプトですが、書き進めながら、やはりサッカーほど、実生活を投影するスポーツは他にはないと再認識していた次第。だからこそ、サッカーは21世紀社会のイメージリーダー・・。

 いま「六刷り」まできているのですが、この本については「こちら」を参照してください。また、スポナビでも「こんな感じ」で拙著を紹介していただきました。

 蛇足ですが、これまでに朝日新聞や日本経済新聞(書評を書いてくれた二宮清純さんが昨年のベスト3に選んでくれました)、東京新聞や様々な雑誌の書評で取り上げられました。NHKラジオの「著者に聞く」という番組で紹介されたり、スポナビ宇都宮徹壱さんのインタビュー記事もありました。また最近「こんな」元気が出る書評が出たり、音声を聞くことができる「ブックナビ」でも紹介されたりしました。

 




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