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「我々サポーターをバカにしているんじゃないのか!!」
テレビをつけたら、そんなことを叫んでいる鬼と見まがう形相の人物が映し出された。フリューゲルスサポーターと全日空の直談判の一コマである。
今回は、マーケティングセオリー的な視点をベースに、この問題について考えてみようと思う。
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まず世の中の原則について。
それは、社会全体が「価値の交換」というメカニズムをベースに成り立っているというものだ。分かりにくいから具体的に考えてみよう。
価値。それには、金や物(ハードウェア・ソフトウェア)の有用性などだけではなく、時間、エネルギー、はたまた思想(哲学的にいえば、特に、真・善・美など、普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値・・大辞林)なども含まれる(定義についてはこれ以上つっ込まないことにする)。
「価値の交換」には、二つのセクター(分野)がある。一つは、「自給自足的」なもの、そしてもう一つが「商業的」なものである。
自給自足的なものには、余暇時間の活動、アマチュアスポーツなどの「個人レベルでの価値交換」などが含まれ、商業的なものには、一般的な経済活動における「市場での価値交換」が含まれる。
フ〜〜、分かりにくい。
要は、人々の生活(社会)が、金を出して商品やサービスを購入することから、ボランティア活動に自分の余暇時間を費やしたり、家庭サービスや家事などまで、常に何らかの「価値の交換」をベースに成り立っているということが言いたかった。
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さて「J」。それは、プロスポーツだから、「商業的」なセクターに含まれる経済活動(価値交換)である。
人々は、素晴らしいプレーによる感動を求めたり、応援するチームの勝利見たさに、また自分が応援する選手の活躍を見るために、はたまた、そこに大勢の人が集まっているから(つまり話題性のあるものに乗り遅れたくないから)、入場料という価値と交換に、プロの試合観戦という「価値」を手に入れる。それも価値の交換である。
ただプロの試合の価値が、入場料に見合わないと考えられれば、人が集まらなくなって当然である。
試合のレベルが低い。応援するチームや選手がいない(参加意識が低いと、その人にとっての価値も大きく下がってしまう)。「J」に対する社会注目度自体が低い(話題性が低い)などなど、価値が低下する要因は様々だ。
「J」発足当時は、大挙して観客が集まった。ただしそれは、レベルの高いプロサッカーという「コアの価値」だけではなく、プロスポーツというソフト商品における「周辺価値」も含めてのものであり、そこには「人は人の集まるところに集まる」という側面もあった。当時の集客装置としての「J」の性能は非常に高かったのである。
世界を代表するサッカーネーション、ドイツでは、まずハイレベルなエキサイティングプレー、地域代理戦争的な要素などの「コアの価値」を中心に、「自給自足的」な価値の交換関係が成立した上で、商業的な価値交換であるプロサッカーリーグが組織された。つまり需要と供給の関係が十分に成り立っているという状況をベースに、自然発生的に本格的なプロリーグがスタートしたのである。(選手自身は当時すでにプロだったが・・)
対して「J」。川渕チェアマンが言っているとおり、「スタート後10年間は、毎年10億円程度の赤字を覚悟でスポーツ文化振興のために協力して欲しい・・」というくらい需給関係のバランスが成り立っていない(・・と考えられていた)状況でスタートした。ただ、周辺価値を中心にした「サッカーバブル」が隆盛を迎えたことで、そんなスタートラインの基本的な考え方(理念?!)に対してスポットライトがほとんど当たらなくなってしまう。
そしてバブルがはじける。
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マーケティング的な視点からすれば、『商業的な価値交換』という市場原則におけるバランスが崩れていると判断した(はじめから理念など眼中になかった?!)企業が、その「ビジネス活動」から撤退したことを誰も非難することはできない。
佐藤工業の撤退は、自社の経営環境の悪化を背景に、フリューゲルスに出資することが自社ビジネスにとってマイナスだと判断した結果であり、その後に訪れる、この企業のイメージに対するマイナス効果、また巨大なビジネスチャンスの「芽」を自ら放棄してしまったことなどは、彼ら自身の問題なのである。
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さてここで最初の視点に戻ろうと思う。自給自足的な価値交換と、商業的な価値交換である。
ここで言いたいことは、サッカーが「大衆文化の価値」を持つようになるためには、自給自足的な価値交換と商業的な価値交換が、うまくバランスするカタチで機能しなければならないということだ。大衆文化的な価値は、その両方によって成り立つのである。
ただ今の「J」は、たしかにレベルは長足の進歩を遂げたとはいっても、まだまだ商業的な価値は不十分である。
今更「J」が、自給自足的な価値交換環境(つまりアマチュアスポーツ)に戻るわけにはいかないだろうから、ギリギリのところで「商業的な価値交換関係」のバランスを保つ努力をしなければならない。
そのことは、「J」の商品価値の低下にともなって、収益も下がることを意味する。つまり選手たちの年俸に跳ね返ってくるというわけだが、それはいた仕方のないことだ。
ただ自給自足的な価値交換セクターでは、「J」をキッカケにして、サッカーの価値が大きく進展しつつある。社会潮流である「見えざる手」によって、サッカーが人々の生活に深く根付きはじめているのだ。レベルアップとサッカー文化のベースを作ったという意味で、「J」の功績は計り知れないほど大きいのである。
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ボクは、大学を卒業して6年間、サッカーネーションを代表するドイツに留学し、人々の生活に深く根ざした「大衆サッカー文化」を体感した。だから、日本でも(発展スピードは別にして)今後とも徐々にではあるが、確実に浸透していくと確信している。
たしかにまだ日本では、「体育」という悪しき発想が根をはっていることもあり、遊びの発展形であるスポーツ(サッカー)が、人々の生活の中に浸透するには時間がかかるかもしれない。それでも、スポーツ(サッカー)が人々の生活を豊かにすることだけは事実なのだから、「見えざる手」によって、それが人々の日常の一部になる(つまり大衆文化になる)ことは、もう誰にも止められないのである。
サッカーが、日本においても大衆文化価値をもつだけのポテンシャル(魅力)を秘めているのはたしかなこと。そのことは、今回のワールドカップに対する関心の高さだけではなく、子供のサッカー人口の急増からも明らかなことだ。また「2002」もある。
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サッカー協会(J-リーグ)は、百年構想という「理念」をないがしろにし、企業側の論理を、「超法規的措置」という名目で短絡的に了承してしまったが、それは筋が違う。
まず協会は、「理念」が生活者のためのもの、ひいては日本社会全体のためのものであることを再度、声高に宣言し、地方自治体や地域住民に働きかける、また別のスポンサー企業への橋渡しなどの努力をしたうえで、フリューゲルスの存続がかなわなかった場合にのみ、苦渋の決断として「一時期のフリューゲルスブランドの預かり」というカタチで、マリノスとの吸収合併を承認すべきだった。または、それを承認せずに、フリューゲルスの経営規模を縮小し、多数の小規模援助を募ることで存続の道をさぐることに尽力すべきだった。
ボクには、協会側がそんな最低の努力をも怠ったとしか見えないし、彼ら自身が発信した理念である「大衆スポーツ(サッカー)文化の百年をかけた振興」自体を、自らが信じていなかったことの証明だとまで言えるように思えてならない。
「体育」出身者が占める協会なのだから仕方がない・・では済まされない。
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とにかくボクは、日本でも「見えざる手」によって大衆スポーツ(サッカー)文化が本格的に浸透していくと確信している。だからこの時点で「将来の巨大な大衆文化価値」を放棄した企業や、こんなまたとない「事後参加チャンス」に飛びつかない、ある程度余裕のある他の企業に対し、「残念ですね・・。あなた方は、こんなに大きなビジネスチャンスを見過ごしてしまったのですヨ・・」と言いたい。
最終的には、生活者との距離が近い企業のみが、現在の「大競争時代」を生き延びられることはたしかなのだから・・。