My Biography
- My Biography(21)_ケルンNo.1プロクラブ(1.FC.Köln=FCケルン)アマチュアチームへのチャレンジ(その1)・・(2014年1月22日、水曜日)
- ■でもまず、私が入居した個人アパートについての補足・・
ケルンに到着して3日目にアパートが決まり、ドイツ語コースがはじまってからは、すぐにサッカー活動も開始した。
あっと・・そのハナシに入る前に・・
アパート(フランク通り11番)の屋根裏部屋では、学生寮とは違い、日常生活を、まったく一人で作りあげなければならなかったというテーマもあったっけ。
それは、初めての経験であり、とても重要なことだった。
その経験があったからこそ、今でも、「様々なコト」から自分を解放し(型にはまらずに!)、本当の意味で自立した生活を謳歌できているのかもしれない・・と思うのだ。
もちろん私にも家族がいる。
それでも、互いの「感性」を尊重し合いながら、ファミリーメンバーそれぞれが、独立した個人生活と協同ファミリーライフを、うまくバランスさせ、コーディネイトできていると思うのである。
まあ、その話題については、後々・・
そんなアパートでの自立生活だけれど、学生寮に入っていたら、楽である半面、まったくゼロから何か(意義ある日常!?)を作りあげるという、自信ベースの自立心(ドイツという異文化圏での自我の形成!?)が、うまく展開していかなかったかもしれない。
まあ、それでも私には、サッカーという「創造的な機会」はあったわけだけれど・・。
とにかく、そんな「自立トレーニングの場」という意味でも、前回コラムで書いたように、聖園(みその)のデレチアさん、そして湯浅フジローさんには心から感謝しているのだ。
ところで、そのアパートの屋根裏フロア。
そこには、数人のドイツ人学生(高校生もいたっけ!?)、ドイツの銀行で実習しているフランス人の女性やデパートに勤めるユーゴスラビア人の女性、そして、パティシエ(菓子職人)のマイスターを目指す日本人女性など、種々雑多な人たちが生活していた。
そんな彼らとのストーリーについても、別の機会に触れることにしよう。
とにかく、まずサッカーだ。
■ファン・バルコムと相川亮一さん・・
そして住むところを決めた私は、まず、その二年前にドイツを訪れたときにもお世話になった、ミッテルライン州サッカー協会事務局長、ベッカーさんに電話を入れることにした。ケルンに到着してから五日後のことだ。
直接サッカー協会のオフィスへ出向けばよかったのだろうけれど、まず、先方の都合を聞いてから訪問するのが礼儀だろうと、電話を入れることにしたのだ。まだドイツ語が不自由であったにもかかわらず・・である。
皆さんもご存じのように、外国語で電話を掛けることほど難しいことはないのだ。
あっと・・、ベッカーさん。
彼は、当時、読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)で監督を務めていたオランダ人プロコーチ、ファン・バルコムから紹介された。
そして、そのファン・バルコムを紹介してくれたのが、当時読売サッカークラブ(トップチーム)のコーチをつとめていた相川亮一さん(故人)だった。
彼は、後に読売サッカークラブ(トッププロチーム)の監督に抜てきされ、チームを二部リーグから一部リーグへ昇格させるだけではなく、その日本リーグ(一部)でも成功に導いた。
今でも高く評価し、敬愛して止まなかったプロコーチ相川亮一さんだけれど、彼は、私が大学二年のときに、湘南高校の恩師、鈴木中先生から紹介された。
その相川亮一さんは、早稲田大学の政経学部を卒業するとき、「オレはサッカーのプロコーチになる・・」などと、当時としては「ワケの分からないこと」を
いって就職せず、横浜にあった小さなスポーツ店でアルバイトをしながら、中学校やインターナショナルスクールのコーチをしていた。
そんな相川亮一さんだったけれど、あるとき、「当方、FIFAのコーチングスクールを卒業したプロコーチです・・コーチとして仕事ができる職場を求む・・」、という求職広告を、サッカーマガジンに自前で掲載した。
当時としては画期的、というか、ブッ飛んだ行動ではあった。
それは、相川亮一さんの優れたパーソナリティーを物語るエピソードの一つだけれど、その広告の甲斐あって、晴れて読売サッカークラブと専属コーチ契約を結ぶことができたというわけだ。
そしてすぐに頭角をあらわし、当時では珍しかった外国人プロコーチ、ファン・バルコムのコーチに抜擢されるのである。
ときを同じくして、神奈川県サッカー協会が主催する「サッカーリーダースクール」も、相川亮一さんが中心になってはじめられた。
まだ相川亮一さんが学生の頃から、彼のことを高く評価していた鈴木中先生は、当時から、神奈川県の国体高校選抜チームを任せたり、彼を中心にコーチ養成プログラムをスタートさせたりしていたのだ。
私も、ドイツへサッカー留学する前に、そのリーダースクールを修了したのだが、相川亮一さんは、ことほど左様に、バイタリティーあふれる人物だった。
ちなみに、リーダースクールの修了試験を担当してくれたのは、古河電工や名古屋グランパスエイトで監督を務められ、日本サッカー協会の重鎮でもあった、故、平木隆三さんだった。それ以降、ドイツ留学中も、彼には色々とお世話になったっけ。
ところで、相川亮一さんがはじめた神奈川県サッカー協会サッカーリーダースクールだけれど、それは、彼が(デッドマール・クラーマーのもとで!)修了した、FIFA主催のコーチングスクール(1973年、至テヘラン)をモデルにしていた。
そのこともあって、とにかく受講期間が長いだけではなく、内容も当時の日本では画期的なものだったことを、今でも鮮明に思い出す。
6歳年上で、優れたパーソナリティーを秘めた相川亮一さんは、私が、もっとも強く影響を受けたプロコーチの一人だった。
あっと・・、ベッカーさんへの電話連絡だった。
■冷や汗ものだった電話コミュニケーション・・
・・ペラペラペラ・・
ミッテルライン州サッカー協会に電話を入れたときのことだ。
受話器を取った女性スタッフの方の言葉が、まったく理解できない。
やはり、電話でのコミュニケーションは、難しい。
最後は、なんとか英語でコミュニケーションを取ることができたけれど、相手も、そんなに英語が上手いわけじゃないから、ちょっと苦労した。
「ベッカーさんは、午後はオフィスにいますよ・・貴方が、午後2時に来ると伝言しておきます・・」
そこまで意思を疎通できたのは、奇跡に近かった。何せ、当時の公衆電話から、コインを追加しながら掛けた電話だったのだから。
公衆電話の内部から伝わってくる、「コチンッ! コチンッ!」というコインの落ちる音が、私を焦りまくらせたのだ。もちろん、それに追い打ちをかけるような、女性スタッフの分かりにくい発音の英語もあった。
汗だくになった。
でも最後は、しっかりと復唱することで、その日の午後2時に、ミッテルライン州サッカー協会のオフィスを訪れるという合意を取り付けられたっけ。
フ〜〜ッ・・
■ミッテルライン州サッカー協会のベッカーさん・・
「久しぶりですね・・貴方がまたドイツへ来ると確信していましたよ・・」
ベッカーさんが、柔らかい笑顔を投げかけくれる。こちらの気持ちを落ち着かせてくれるスマイル。笑顔は、スムーズなコミュニケーションの基本なのだ。
「ご無沙汰してしまいました・・また、お礼のレターを出しただけで、その後は音信が途絶えてしまって恐縮してます・・」と、私。
「いや、そんなことは気にしなくてもいいですよ・・私も、クリスマスカードだって出さなかったんだからね・・そうですか、ケルンの総合大学で勉強するんですか・・」
「はい・・でもそれは最初の段階で、近いうちにケルン体育大学でも学生登録できればと思っています・・何せ、ドイツサッカーのアカデミックな中心は、あそこですからね・・とにかく今は、ドイツ語をマスターするために必死で頑張っています・・」
会話は、もちろん英語。ベッカーさんは、英語がとても堪能だ。そして会話するなかで、具体的な用件について聞いてきた。
「たぶん貴方が私を訪ねてきたのには、理由があるんでしょ・・挨拶だけじゃないと思うけれど・・」
ちょっと逡巡したけれど、意を決して切り出した。
「そうなんです・・いまはドイツ語を必死に勉強していますが、それと並行してサッカーも、どこかでプレーできればと思っているんですよ・・それも、出来る
限り高いレベルのチームで・・高望みかもしれませんが、もしベッカーさんが、1.FC.Kölnのアマチュアチームを紹介していただけたら、とても嬉し
いのですが・・」
そこまで言って、ちょっと赤面した。
何せ、1.FC.Kölnのアマチュアチームと言えば、プロ契約がかなわなかった成人の猛者がプレーしているのだから。
そのアマチュアチームについては、前回のドイツ旅行で調べ上げていた。そのこともあって、ケルンへサッカー留学するときには、まず「そこ」で武者修行するつもりだったんだ。
■いざ、チャレンジ・・
もちろん高望みであることは重々承知していたけれど、ドイツ留学という人生の一大チャレンジをスタートさせていたわけだから、逡巡することは全くなかった。
英語で言うならば、「why not...!?」っちゅう心境だったのだ。
「そうですか・・もちろん、紹介しますよ・・そのチームの監督さんとは懇意ですからね・・」
そう言うと、ベッカーさんは、すぐに電話を手に取った。
ドイツ語だから、何を言っているのか分からない。でも、雰囲気は、とてもいい。そして・・
「それでは、今日のトレーニングから参加してください・・大丈夫ですよね・・もちろん、参加とはいっても、まず貴方の実力を確かめるためのトライアルではありますが・・もし、そのチームのレベルが高すぎたら、その監督さんが、別のチームを紹介してくれるはずです・・」
そのハナシを聞いて、急にビビッたことを思い出す。
「エッ!! 今日からですか!?」
それでも、すぐに思い直した。
・・もう、ここまできたら、やるしかないじゃないか・・心の準備なんて、くそ食らえだ・・当たって砕けてやる・・
「分かりました・・本当に、心から感謝します・・結果については、またお伺いして報告させていただきます・・」
姿勢を正し、そんな決意を(スピリチュアルエネルギー)をベッカーさんへ投げたっけ。
ベッカーさんも、そのエネルギーを感じたに違いない。満面に笑みを浮かべ、「とにかく・・頑張ってください・・応援していますよ・・」と、励ましてくれた。
■そして、1.FC.Köln(FCケルン)・・
ベッカーさんのオフィスを後にした私は、まずアパートへ戻り、「気」を入れ直しながら、シューズやウェアをバッグに詰め込んだ。
このプロセスが、とても大事なのだ。
そこで、これから起きることをイメージしながら、気合いを入れ直すのである。いや、変なネガティブなイメージをフッ切る・・と言った方が正確かもしれない。
そして気合いの入った私は、シュトラッセンバーン(路面電車)を乗り継ぎ、1.FC.Kölnのクラブハウスへ向かった。
そのクラブハウスは、ケルン市を取り囲む「市の森」のなかにある。
シュトラッセンバーンの終点からは、歩いて15分くらい。徐々に市の森が迫ってくる。そして私は、クルマが往来する大通りから、クラブへ向かう(森の中へ分け入っていくような!?)一本の小径へ入っていった。
小鳥のさえずりが聞こえるような、静かで落ち着いた森の中。
希望と不安、そして緊張から、胸が高鳴っている。
その小径は、高い木々におおわれて薄暗いけれど(まさにヘンゼルとグレーテルの世界!?)、それでも100メートルも歩いたら、右手に最初のグラウンド施設が見えてきた。チト、ホッとした。
その施設は、クレーの(土の)グラウンドが二面と、立派な芝のグラウンドが二面。もちろんサッカー専用だし、照明施設もある。
そんな充実した施設は、読売サッカークラブでもお目に掛からなかった。そんなサッカーグラウンドを目の当たりに、期待の半面、不安や緊張感も高まっていったモノだ。
・・こんな立派な施設でサッカーをやったことなんてない・・オレは、ここでサッカーをするのに十分なチカラはあるんだろうか?・・
そして、そんなグラウンド施設を過ぎたとき、急に森が開け、1.FC.Kölnのメイン施設が、目に飛び込んできたんだよ。
大きな駐車場を「前庭」に、地下もいれると3階建てになる立派なクラブハウス。2階部分には、ベランダやレストランが併設されている。
そのクラブハウスの正面に、プロが使用するメインのトレーニンググラウンドがあり(もちろん芝のグラウンド!)、クラブハウスの裏手には、2000人ほどの観客を収容できる小規模なスタジアムもある。
・・なんて立派なサッカークラブなんだろう・・前回のドイツ旅行では、ここまでは足が伸びなかったけれど、見学しておけばよかった・・
ちょっと圧倒され、そんな後悔の念が頭をよぎったものだ。
そして、ちょっと緊張した心理状態で、メインのトレーニンググラウンドを取り囲むように設置されている(見学の人たちが腰を掛けられるような)鉄パイプ製の「仕切り囲い」に腰を掛けていた。
そのとき・・
■憧れのスターが・・
そう、私の目の前を、当時の1.FC.Kölnと西ドイツ代表チームのビッグスター、ヴォルフガング・オベラートが通り過ぎたんだよ。
それも、私の顔を確認してから、「グーテンターク(今日は!)」なんて声を掛けてくれる。
そのときは、フリーズし、声も出なかった。
・・オイオイ・・今のは、オベラートだろ・・信じられない・・
そんな感じ。フ〜〜ッ!!
まあ、だらしないことこの上なかったのだけれど、そのときは完全に余裕を失っていた。
それだけじゃなく、その後も、ケルンのスター選手たちが、私の前を通って、続々とクラブハウスに入っていったんだ。
それも、多くの選手が、(当時は珍しかった!?)東洋人の私へ、値踏みするような視線を投げたり、声を掛けたりしながら通り過ぎていったんだよ。
フリーズしながらも(声などまったく出せなかったけれど・・)、徐々に、アタマを下げながら、目で挨拶することくらいは出来るようになったっけ。
そして徐々に、気持ちが、現実へと引き戻されていった。
そのとき私は、アマチュアチームの監督さんを尋ねていかなければいけなかったのだ。
そのためには、誰かに、その方の居所を聞かなければならない。フ〜〜ッ・・
(つづく)
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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。
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重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。
追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。
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ところで、湯浅健二の新刊。三年ぶりに上梓した自信作です。いままで書いた戦術本の集大成ってな位置づけですかね。
タイトルは『サッ カー戦術の仕組み』。出版は池田書店。この新刊については「こちら」をご参照ください。また、スポーツジャーナリストの二宮清純さんが、2010年5月26日付け日経新聞の夕刊 で、とても素敵な書評を載せてくれました。それは「こちら」です。また、日経の「五月の書評ランキング」でも第二位にランクされました。
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