My Biography


My Biography(63)_日常のエピソード・・一人旅(その2)・・(2017年2月9日、木曜日)

■もう少し、クルマのハナシをしよう・・

修理が済んだアズーリ(各種スポーツのイタリア代表=地中海ブルー!)のオペル・カデット。

たしかにドライビングは安定した。リアの駆動シャフトの湾曲は、私が「その改善」を体感できるくらいだから、ドライバビリティにも大きな悪影響を及ぼしていたということか。

それにしても・・

修理工場のマイスターが訝(いぶか)しげに自問自答していたのだけれど、どうしてリアシャフトが曲がってしまったんだろうか・・?

「たぶん、縁石などに、横加重で、リアタイヤを激しくぶつけたんじゃないかな〜・・それ以外に考えられない・・でも、とにかく、こんなことは経験したことなかったよ・・」

そうだよな。タイヤ(ドライブシャフト)は、前後方向への負荷には強いだろうけれど、横方向のショックには弱いということは分かる気がする。

このオペル・カデット。もちろん1.3リッターという非力エンジンだから、ぶっ飛ばせるはずがない。それでも、何度もアウトバーンに持ち込んで高速運転にもトライしたっけ。

そして、繰り返し、ウリの「スーパーカー」との差を体感させられたというわだ。

もちろん、そのネガティブ体感は、「いつかはオレも・・」ってな、若さ故の(!?)モティベーションに変換されたわけだけれどサ。

当時、ウリは(彼については以前のコラムを参照してください)、これまた中古のBMW2002を駆っていた。

それも、普通のセダンじゃなく、今で言うファストバックタイプだ。BMWでは「ツーリング」と呼んでいた。

この「BMW2002シリーズ」だけれど、今でも、マニア垂涎の名車だ。

私の「ベリー・ノーマル」のオペル・カデットなどは話題にもならないだろうけれど、「2002」は、40年以上を経てもなお、マニアの憧れを誘う「何か」を秘めているというわけだ。

そのなかでも、ウリの愛車は別格だった。

エンジンは、インジェクションタイプ。そう、当時から現在に至るまで、マニアが特別な視線を奔(はし)らせて止まない、「BMW2002tii touring」である。

当時のウリが、鼻高々に、そのクルマをドライブしていたのも当然だ。彼は、個人的な関係(東ドイツからの逃亡者支援団体!?)を通して手に入れたと言っていた。

その「BMW2002tii touring」。とにかく目立っていた。

ドイツでも、クルマは、ドライバーのパーソナリティーを表現する手段なのだよ。

メルセデスは、「社会的な成功者」、BMWは、「スポーティービジネスマン」等など。

ということで、カデットを乗り回す当時の私が、どのような「目」で見られていたかは、推して知るべしなのであ〜る。

もちろん(前述したように!)それが、「いまに見てろヨ・・」ってなモティベーションになったことは言うまでないけれど・・サ。

そのウリの名車、「BMW2002tii touring」だけれど、私は何度も運転したことがあった。

もちろんウリは、最初の頃、日本人のドライビングを信用していなかった。でもオレの場合は、実際に運転させてみたら、すこぶる上手い・・ってなことになったわけさ。

そりゃ、そうだ。私は、プロのトラックドライバー(新車の陸送ドライバー)として、ドイツ留学費用のほとんどを稼ぎ出したんだからね。

その経緯については、初期のバイオグラフィー・コラムを参照して欲しい。

あっと、余談が過ぎた・・

とにかく、クルマを手に入れたことで日常に花が咲いたコト、また、オペル・カデットの「非力さ」&「ネガティブイメージ」に馴れるまでに少し時間が要ったコトが言いたかった。

もちろんウリが、薄ら笑いを浮かべながら私の愛車をドライブしたことは言うまでもない。

フンッ・・

■さて、出発だ・・

当時は、プロのコーチングスクールへの参加が認められたことでホッとしていた時期だった。

このプロコーチ養成コースだけれど、とにかく「そこ」に、ドイツサッカー協会に認められ、ゲストではなく正規の参加者として入り込むことは、とても難しかった。

何せ私は、当時の世界サッカー界では、振り向く者など誰もいない日本からの留学生だったわけだから。

とにかく私は、コーチングスクールに参加するために膨大なエネルギーを傾注した。

知り合いになったサッカー関係者の紹介や推薦だけじゃなく、実際にドイツサッカー協会に足を運んだりもした。

とにかく、出来ることは全て、本当に全てやり尽くしたのだ。そしてやっと、本当にやっと、プロコーチ養成コースへの参加が認められた。

私は、そのときの「ホッと胸をなで下ろす感覚」を、ストーリーの流れに落とし込めるだけの文章力など持ちあわせていない。

それほど、参加が認められたときの感慨は、圧倒的だったのだ。

また、それまでの数年間、自分がドイツでやってきたことがドイツサッカー協会に認められたことも、素直に嬉しかった。

もちろん、コーチングスクールでは、緊張の毎日が待っているはずだ。

そこは、「あの」ドイツだし、それも厳しいプロの世界だ。

参加すればオーケー(何となく波に流されるように卒業できる!?)なんてコト、あるはずがない。

そこでは、日常の言動、態度だけではなく(コーチとしての一挙手一投足が観察され、評価されている!)、コーチング実習、ゲームでのプレー内容が問われ、そして六ヶ月のスクーリングの後には、国家試験という大きな試練が待っている。

もちろん、そのことはよく分かっていた。

だからこそ、その前に、何としてもヨーロッパ一人旅を敢行したかったのだ。

そんな、クルマ一人旅の「最初の行く先」だけれど、実は、前から決まっていた。そう、前回コラムに書いた、旧ユーゴスラビア。

当時のドイツでも、旧ユーゴスラビア出身のサッカー関係者は、とても多かった。

もちろん、ソ連スターリンの過剰な支配に抗するような(非同盟中立という独自の社会主義路線!)で引っ張ったチトーという指導者によって、社会は安定していたけれど、やはり、豊かなドイツという「吸引力」は、とても大きかったんだ。

「そうさ・・オレ達プロのサッカー人は、ウデさえあれば、ドイツで、とても良い生活をおくれることを知っていたんだよ・・それにユーゴの場合、他の東欧諸国とは違い、ドイツへ出稼ぎにいくことに対する規制もユルかったからな・・」

「Aライセンス」のコーチ養成コースで一緒になった(旧)ユーゴスラビア人の(彼はセルビア出身だった!?)ヨヴァノビッチが、そんな背景を語ってくれた。

そのヨヴァノビッチだけれど、とにかく上手かった。もう信じられない程のテクニシャンだったんだよ。私は、そんな、ヤツのテクニックに憧れた。

「そうか・・オレ、上手い?・・へへっ・・自分でも、そう思うよ・・ドイツ人ってサ、プレーが硬いじゃないか・・だから、オレ達、ユーゴ出身のプロ選手の 間じゃ、ドイツへいけば、ドイツ人選手は持ちあわせていない技術クオリティーで重宝されるし、イイ金が稼げるって、みんな知っていたのさ・・」

ヨヴァノビッチがつづける。

「だから、プロ選手は、みんなドイツへ行こうとしていたんだ・・もちろん、フランスやイタリアを目指すヤツらもいたけれど、そこにはテクニックに優れたヤツらが多かったからネ・・」

ヨヴァノビッチの、そんな言葉にも、とても興味を惹かれたものだった。

そう、だからこそ、その(旧)ユーゴスラビアのサッカーインフラを体感したかったんだよ。

さて、出発だ・・

■最初は、ロマンチック街道を、ひたすら南下した・・

ビュン・・ビュン・・

愛車カデットの風切りサウンドじゃないよ。

鈍重なカデットが、メルセデスやBMW、はたまたポルシェといったパワフルな高級車に追い抜かれるときの風切り音なんだよ。

ホント、アタマに来る。でも、まあ、そんな音にも、直ぐに馴れた・・というか、馴れざるを得なかったっちゅうわけさ。

ということで私は、ケルンからフランクフルト、そしてヴュルツブルクを通り、一路、ロマンティック街道へと南下していった。

(つづく)

PS:実は、明後日(2017年2月11日)に、親友のウリが来日するのだ。四日間だけ・・。要は、最終目的地のニュージーランドへ向かうトランジット で、日本に数日立ち寄るというわけだ。ヤツもオートバイが好きだ。まあ、私のようなレーサーレプリカじゃなく、ヨーロッパ的なツアラータイプ(もちろん BMW)だけどネ。そして、ニュージーランドで、レンタル単車を調達してツーリングするってなツアーに参加するということらしいんだ。ということで、少し ヤツに時間を取られるから、次のアップは、来週以降ってなコトになりますかネ・・

============

これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。

===============

 重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。

 追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。

==============

 ところで、湯浅健二の新刊。三年ぶりに上梓した自信作です。いままで書いた戦術本の集大成ってな位置づけですかね。

 タイトルは『サッ カー戦術の仕組み』。出版は池田書店。この新刊については「こちら」をご参照ください。また、スポーツジャーナリストの二宮清純さんが、2010年5月26日付け日経新聞の夕刊 で、とても素敵な書評を載せてくれました。それは「こちら」です。また、日経の「五月の書評ランキング」でも第二位にランクされました。

 





[ トップページ ] [ Jワンポイント ] [湯浅健二です。 ]
[ Jデータベース ] [トピックス(New)] [ 海外情報 ]