My Biography


My Biography(64)_日常のエピソード・・一人旅(その3)・・(2017年3月13日、月曜日)

■ロマンティック街道

これ・・、ドイツ語では、「ロマンティッシュ・シュトラ〜セ」と呼ぶ。

フランクフルトから100キロほど東南東へいったヴュルツブルクという町から、ドイツ南端の観光都市(いや・・村だね!)フュッセンまでの、ほぼ直線的に南下する366キロにおよぶ観光街道だ。

途中にローテンブルクやディンケルスビュールという、中世の香りが漂う美しい伝統ビレッジだけじゃなく、多くの小さな城が点在する。

そして、この街道のハイライトが、終点のフュッセンにある白城、ノイシュヴァンシュタインというわけだ。

ところで、その名称の「ヴ」だけれど、それは「W」であり、決して「B」ではありません。

以前、このフュッセンを訪れた日本人観光客が(ドイツ語が少しできることが災いした!?)、この城に行きたくて道を尋ねた。

その方がドイツ人に尋ねている近くにいたから、そのドイツ語が聞こえたんだよ。そこで、その方が、「ノイシュバインシュタインはどこですか?」と質問したんだよ。

そこで、急に、尋ねられたドイツ人の爆笑がはじけた。

正しい「W」の発音だったら、その意味は「新しい白鳥のお城」ってな感じ。

でも、その日本人旅行者の方が、「B」で発音してしまったから、たまらない。それは・・

そう、その意味は「新しいブタのお城」ってなニュアンスになってしまうんだよ。

そりゃ、腹をかかえるよな・・

へへっ・・

あっと、「ロマンティッシュ・シュトラ〜セ」だった。

前述したように、終点のフュッセンまでの400キロ弱の道程は、本当に見所満載なんだ。

なかでも特筆に有名なのが、小高い丘の上に鎮座する伝統的なビレッジ、ローテンブルクっちゅうわけだ。

その旧市街は、まさにメルヘンの世界。

私には、その概観や歴史のバックボーンを表現できるだけの文章力がない。それについては、ウィキペディアの「この情報ベージ」にアクセスしてください・・ネ。

ということで、もちろん私も、事あるごとに、ローテンブルクを訪ねた。その「コト」の中心は、日本からの、友人やVIPのアテンドだね。

もちろん、プライベート旅行の、通訳兼ガイドとしてアルバイトしたこともある。

まあ、たぶん良い仕事をしていたということなんだろうね、口コミで評判が広がり、個人的に依頼されるケースも増えた。

そう、顧客は、邦人富裕層の方々。

とても、とても、ペイが良かった。だから、決して断らず、いつも高級なレンタカーを調達して、フランクフルト空港へピックアップしにいったものだ。

アゴアシにホテル、日当やレンタカー代などは、もちろん「あちら持ち」。当時の私にとって、まさに「超」豪華旅行だった。

そのときだけは、ウリに羨ましがられたっけ。

あるときなどは、富裕層の方が、「ポルシェ911」のレンタルを依頼してきた。もちろん、その方がドライブしたわけだけれど、私も、交替して運転したんだ。

そして、その方をフランクフルトまで見送った後は、そのレンタル・ポルシェを、ウリと二人で乗り回したっちゅうわけだ。

あっと・・、またまたハナシが、明後日の方向へ飛んでしまいそうになった。

とにかく、そんな高級車とは、まったく次元の違う(まさに同じクルマとは思えない!?)オペル・カデットを駆って、一路、「旧ユーゴスラビア」へと向かうことにしたんだよ。

■でも、ノイシュヴァンシュタイン城についてだけは、もう一言・・

そう、ヨーロッパアルプス北端の山々の中腹に、緑濃い森のなかから浮かび上がる、まさに白亜のメルヘンキャッスル。

それについてもウィキペディアをご参照ください・・ネ。

ところで、そのお城に使われた「白鳥のように白い石」。

それは、ケルンの大聖堂に使われた石と出所が同じだと聞いた。でも、ケルンの「それ」は、真っ黒なんだよ。

ということで、ノイシュヴァンシュタインの「白さ」を知っている筆者は、ケルンの大聖堂を見るたびに、おのずと、文明文化の「衝突」という現実を噛みしめていたっちゅうわけさ。

でも、その「白さ」には、ちょっとガッカリさせられるハナシが隠されているらしい。

それは、オリジナルの石が劣化した後は、鉄筋コンクリートをベースに表面はモルタルで仕上げ、純粋に観光目的の白亜キャッスルにされたということ。

たしかに、ノイシュヴァンシュタインは、軍事や政治、外交の機能をほとんど持たず、当時のバイエルン王ルートヴィッヒ2世の道楽だったわけだし、今そのお城は、本来の目的に沿って、社会に貢献しているっちゅうことか・・。

フムフム・・

ところで、築城したバイエルン王ルートヴィッヒ2世。彼は、道楽が高じたことで、「周り」から幽閉された末に、不審な死を遂げたということだ。

まあ、とにかく、いまノイシュヴァンシュタイン城が、メルヘン王国ドイツが提供する観光目玉の一つとして大いなる価値を提供しているだけじゃなく、ディズ ニーランドのお城のモデルにもなるなど、世界の「メルヘン・キャッスルのイメージリーダー」としても機能していることだけは、言っておきたかった。

■そして一人旅・・オーストリアを通過して、一路ヴェネチアへ・・

実は、その道程については、ほとんど覚えていないんだ。

たぶん、単純に、インスブルックを通過してイタリアへとつづくアウトバーンを走りつづけたからだったんだろうね。

もちろん、途中で、何か印象に残るような出来事に遭遇しなかったこともある。

だから、国境を通過してイタリアに入った時のことも、まったく覚えていない。イタリアへの入国だからね、少しは、記憶に残る感動があってもいいはずなのに・・。

あっと・・、一つだけ。

オーストリアとイタリアの検問所を通過したときのこと。要は、ドイツ語圏から離れたわけだけれど、そのときのことだけは覚えている。

それは、国境検問所を通ってから最初に休んだパーキングエリアで、聞こえてきたのがイタリア語「ばかり」だったこと。

そりゃ、「あっ・・イタリアだ〜・・」なんて、少しは気持ちが昂ぶって(刺激として!)記憶に残るのも当然だ。

でも、その後は、単にクルマを走らせつづけるだけだった。

国境から、ヴェローナを通ってヴェネチアまでは、200キロ弱だから、ほんのひとっ走りってな感じだった「はず」なんだけれど、その間のことを、まったく覚えていないんだよ。

やっぱり、知らない土地を尋ねたときは、クルマは避けた方がいいのかもしれない。視線の先のある道路(路面)は、世界中どこでも変わり映えしないわけだからサ。

よくあるんだよ・・目的地まで、まったく休みなくクルマを走らせることが。ドイツだったら、1日に1,000キロの移動とか、普通だからね。

まあ、近頃は、途中の景色に惹かれてアウトバーンを下りたり、近くのホテルで数日を過ごしたりすることが増えたけれど、若い頃は・・

ということで、「あの時」も、目的地へ向かうことでアタマが一杯だったというわけさ。でも、カデットがよく走ったことだけは覚えているよ。

要は、カデットに対する(その走行性能に対する!?)期待値がとても低かったから、逆に、「それにしては、よく走る・・」なんていうポジティブな記憶の方が、より鮮明に残ったということなんだろうね。

フムフム・・

■そして、ヴェネチアに到着・・

イタリアを代表する観光都市、ヴェネチア。そこでのことは、いまでも鮮明に思い出せる。

「フ〜〜ッ・・やっと到着した・・」と胸をなで下ろし、まずツーリストセンター(観光案内所)へ向かおうとした。でも、そのセンターを見つけるのに苦労させられることになる。

皆さんもご存じのように、ヴェネチアは、本土から少し離れた干潟の上に、長いクイを打ち込むなどの方策をとって建設された人工市街だ。

本土とヴェネチア本島の間は、リベルタ橋の道路と、それに平行する鉄道橋によって結ばれている。もちろんリベルタ橋には歩行者用の歩道も確保されていた(る)はずだけれど・・。

そんなだから、もちろんヴェネチアの本島内では、クルマは使えない。

だから、クルマでヴェネチア本島に乗り入れた私は、まずクルマを、リベルタ橋の終点に確保されているローマ広場のパーキングに置いて散策をはじめたというわけだ。

そんな、ヴェネチア本島に到着してからの「最初の手順」についてだけは、ドイツを出発する前に調べておいた。

「私らしく」はないけれど、とにかく、ヴェネチアには思い入れがあったから、いい加減に立ち寄ることには抵抗感があったんだ(映画などによる憧れ!?)。

そして私は、ローマ広場に立った。

もちろん、まず鉄道のヴェネチア駅を目指した。そこには、確実にツーリストセンターがあるはずなのだ。でもすぐに、複雑怪奇に入り組んでいる道に、完璧に方向感覚を失ってしまうのだよ。

もちろんそれは、水の都だから。運河がメインの人工市街、ベネチアということで、道路は複雑怪奇に入り組んでいるんだ。

1970年代のハナシだから、いまは分かりやすくなっているとは思うけれど・・サ。とにかく私は、地図を片手に、あーでもない、こーでもない・・って、ヴェネチア駅への道を探ったというわけだ。

そして・・

時間はかかったけれど、やっとヴェネチア中央駅のツーリストセンターを見つけ、勢い込んで駆け込んだんだよ。

そしたら・・

■世界は狭い・・

「アラ〜〜ッ・・ケンジじゃないの〜・・何やっているの?」

それは、聞き慣れた声だった。

そう、ケルン体育大学のダンスコースで、プロジェクトチームを組んでいたアグネスだったのだ。

私は、サッカーだけじゃなく、「Vor-Prüfung」と呼ばれる、卒業までにクリアしなければならない「中間」の国家試験までは終わらせたいと、全てのスポーツにトライしていた。

もちろん解剖学や生理学も学んでいた。要は、その「Vor-Prüfung」を受けるために必要な課目をすべて履修していたということだ。

とはいっても、プロサッカーコーチの国家試験をクリアした後は、カネがつづかなかっただけじゃなく、なるべく早く、日本のサッカー界でコーチデビューしたかったこともあって、結局は、ケルン体育大学の卒業は諦めた。

そんな留学生活で、私が選択した課目の一つが「ダンス」だったというわけだ。

モダンダンス、ジャズダンス・・なんでもあったけれど、そのすべてが楽しかった。要は、ダンスが得意だったんだよ。リズム感では負けない自信があったしね。

そんな自信にあふれる筆者に対し、プロジェクトチームの仲間だったアグネスは、音感やリズム感がとても悪かった。

だから、そんな彼女のために「居残りトレーニング」を手伝う機会も多かったんだ。

そのこともあって、彼女との「人間的な距離」が近くなるのも道理だった。

でも、男と女の関係にはならなかったよ。当時、彼女だけじゃなく私も、日常のパートナーに恵まれていたからね。へへっ・・

そのアグネスに、ケルンから何百キロも離れたヴェネチアで再会したんだよ。

(つづく)

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これまでの「My Biography」については、「こちら」を見てください。

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 重ねて、東北地方太平洋沖地震によって亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に、被災された方々に、心からのお見舞いを申し上げます。 この件については「このコラム」も参照して下さい。

 追伸:わたしは”Football saves Japan”の宣言に賛同します(写真は、宇都宮徹壱さんの作品です)。

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