トピックス


ここで一度、「ドイツ」というテーマをまとめておこうと思います・・(2004年1月15日、木曜日)

ドイツワールドカップまであと2年ということで、、様々なプリントメディアで発表した文章をもとに、「ドイツ」というテーマをまとめておこうとキーボードに向かいました。

 ここでは、昨年暮れの「サッカー批評」で発表した、時系列でとらえたドイツサッカーの光と影というテーマがメインになります。また、1990年代に入ってからの詳しい事情や、2002W杯にかかわる経緯などについては、2003年2月に雑誌ナンバーで発表した「クリストフ・ダウムとの対談記事」や、W杯後にHPで発表したコラム&レポート(その1 その2)も参照してください。かなり長い文章ですが、では・・

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(サッカー批評用に、2003年11月8日に書き終えた文章です)

 「そんなことはない! オレたちだってテクニカルで美しいサッカーができるさ・・そう、1972年のヨーロッパチャンピオンチームのようにな・・とはいっても、たしかに今は、フィジカルの強さばかりが前面に押し出される戦術偏重サッカーに陥っているのは否定できないけれど・・」

 日韓ワールドカップが終演を迎えた翌月、ドイツのザールブリュッケンで、ドイツサッカーコーチ連盟が主催するコーチ国際会議が開催された。私も招待され、パネルディスカッションのパネラーとして壇上に立った。

 ドイツが準優勝したこともあって、参加者は1000人を超えるなど、大盛況。私も、多くの旧友との再会を果たした。やはりワールドカップのパワーはすごい。とはいっても、彼らの口は一様に重かった。それは、ドイツ代表が予想に反して決勝まで駒を進めたことに対する素直な喜びよりも、近年のドイツが抱える「美しさに欠けたパワーサッカー」というジレンマと否応なく対峙せざるを得なくなったという心の負担の方が大きかったからに他ならない。ワールドカップ決勝という世界が注視する舞台において、世界のクリエイティビティー(創造性)を代表するブラジルと対戦したからこそ・・。

 今回のドイツ代表は、まったく期待されていなかった。そこには、地域予選での試合内容が悪かっただけではなく、ショル、ダイスラー、ノヴォトニーといった攻守の「創造性プレーヤー」が、次々とケガで戦線離脱してしまったという背景があった。残っていたクリエイティブ系の選手は、バラックとベルント・シュナイダーくらい。これでは闘う意志だけが前面に押し出されたパワーサッカーしかできないだろうし、どうせ勝てっこないのだから(恥をさらすだけだから?!)本大会に出ない方がいい・・。国内メディアの中には、そんな露骨なネガティブキャンペーンを張るところまで出てきていた。

 ただ私は、様々なメディアを通じ、そんな逆風が吹き荒れているからこそドイツの伝統的な勝負強さが倍加するに違いないという主張を書き、語りつづけていた。そんな私の確信の背景には、現ドイツ代表コーチで、プロも含む、全てのコーチ養成コース総責任者でもあるエーリッヒ・ルーテメラーと、大会前に話した内容もあった。「ヤツらは完全に吹っ切れたよ。チームとして一つにまとまったと思う。少なくとも全力で闘うに違いない・・」。

 クリエイティブな選手を次々に失ったドイツ代表。だからこそ彼らの、攻守にわたるプレーイメージは一つに収斂された。マンオリエンテッド組織ディフェンスの発想を基調にする堅牢な守備ブロックをベースに、サイドからのピンポイントクロスと、バラックを中心にした中距離シュートで勝負を決める・・。そんな統一イメージがあったからこそ、ボールがないところでの勝負アクションも有機的に連鎖しつづけたのだ。その徹底度は、まさに群を抜いていた。だからこそ抜群の勝負強さを発揮した。そしてドイツ代表は、前評判とは裏腹の快進撃をつづけて決勝まで駒を進めたのである。たしかにブラジルに惜敗したが、実質的なチャンスの数など、内容的には互角以上の立派な闘いを繰りひろげた。とはいっても、「創造性ベースの美しさ」というポイントで後れをとっていたことも確かな事実だった。そして、勝負強いパワーサッカーという定評だけが強化されることになる。そのことが、ドイツサッカー界に暗い影を落としているのである。

 あるドイツ代表選手の「呟き」を聞いたことがある。「オレたちは、パワーだけで美しさに欠けるなんてことを言われる・・本当にアタマにくる・・でもいいさ、何といわれようとオレたちは勝っているのだから・・逆に、それでオマエたちはオレたちに勝てるのかいって言ってやりたいよ・・」。

 「オマエたち」というのが誰を指しているのかは分からないが、それが悲しい開き直りに聞こえることだけは確かだ。彼らにしても、美しく、そして勝負強いサッカーを心から志向しているのだから・・。

 そんな暗い背景があるから、「それにしてもヨコハマでの決勝じゃ、スタジアムのマジョリティーがブラジルを応援していたよな・・やっぱり、テクニックを前面に押し出した美しいサッカーには普遍的な価値があるということなんだろうな・・その意味じゃドイツは、特にラテン系のフットボールネーションからはちょっと水を空けられているからな・・」という私の発言に対し、冒頭の、深い感情が込められた反論があったというわけだ。

 美しく強かった1970年代のドイツ代表。ただそれ以降は、勝負強いドイツというイメージばかりが先行してしまった。だからこそドイツ人は、スーパーサッカーで世界中の人々を熱狂させた1972年のヨーロッパチャンピオンチームに思いを馳せる。あのチームの美しさ、底知れぬ強さは、いまでも世界中で語り継がれているのである。

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 世界サッカー地図におけるドイツ・ブランドは、たしかに勝負強さイメージが先行しているにしても、まだ畏敬の念をもって高く評価されているという事実を否定する人は少ないだろう。その「イメージ価値」の底流にあるのは、ドイツサッカーが積み重ねてきた栄光の歴史だ。

 第二次世界大戦後、最初に欧州で行われたワールドカップは1954年のスイス大会だった。その大会が、栄光のドイツサッカー戦後史のスタートラインとなった。西ドイツが、はじめて世界の頂点に立ったのだ。それも、マジックマジャールと呼ばれて世界中から恐れられていたスーパーチーム、ハンガリー代表に競り勝って手にした栄冠である。

 実は西ドイツは、予選リーグでもハンガリーと対戦していた。そして「8-3」という大敗を喫していた。ただそれは、知将ゼップ・ヘルベルガーによるクレバーな作戦だった。「予選リーグを一位で通過したら、決勝トーナメントで、ブラジル、ウルグアイという強豪と当たらなければならない・・」。予選リーグでハンガリーと闘った西ドイツ代表は、7人もの主力選手を温存してゲームに臨んだのである。しかし決勝では、予選リーグの圧勝で心理的なスキが生じていただけではなく、準々決勝、準決勝で当たったブラジル、ウルグアイとの死闘で精力を使い果たしていたハンガリーを見事に下し、世界の頂点に立つ。まさにその大会が、ドイツ神話の始まりになったのである。

 とはいっても、その後8年間の世界サッカーの勢力図は、ブラジルの独り舞台だった。彼らは、17歳のペレが世界デビューを飾った1958年スウェーデン大会、そして1962年チリ大会と、連続して世界の頂点に立ったのだ。ただその4年後のイングランド大会(1966年)から、今度は西ドイツが世界舞台での存在感を高めつづけていくことになる。その大会での西ドイツは、着実なゲームを積み重ねて決勝まで進出した。たしかにファイナルでは、地元イングランドに惜敗した。それでも、世界に対して「強いドイツ」を強烈にアピールできたことは大きな成果だった。

 そして、1970年のメキシコ大会。それまでの西ドイツ(戦前はドイツ)のワールドカップにおける戦績は、優勝、準優勝、そして三位が各一回づつ。世界に誇れる結果ではあるが、そこで展開したサッカーは、闘う意志を前面に押し出す勝負強さの方が目立つものだった。ただ、そのイメージが、この大会を境に明らかに変容していくことになる。世界が、ゲルマン魂と恐れられていた勝者のマインドに、創造性あふれる美しさも加味されてきたと認識しはじめたのだ。その象徴となったのが、今でもドイツサッカーのイメージリーダーとして君臨するフランツ・ベッケンバウアー、その人である。

 この大会は、ペレを中心にしたブラジル代表が、結果でも内容でも席巻した(決勝ではイタリアを4-1と粉砕)。そこでの西ドイツは、イタリアとの死闘(準決勝)で惜敗し、結局三位で大会を終えた。それでも、彼らが魅せた高質なサッカーは世界中から注目され、称賛の的になったものだ。世界中のエキスパートたちは、こんな意見で一致していた。「圧倒的な存在感のブラジルに、内容でも互角の戦いを展開し、そして勝てるとしたら、それは西ドイツ代表以外にはない・・」。

 ベッケンバウアーは、「リベロ」というポジションに対するイメージを一新し、その理想型を確立した。「リベロ」とは、イタリア語で「自由な人」という意味。それまでのリベロは、守備において自由にプレーするだけだった。ただベッケンバウアーは、そんな守備一辺倒のイメージを大きく発展させた。攻撃でも、素晴らしく効果的なプレーを展開したのである。まさに、攻守にわたる実効ある自由人。忠実で強力なディフェンスを基盤に、ボールを奪い返した次の瞬間からは、後方からゲームを組み立てるだけではなく、ときにはチャンスメイカーとして味方フォーワードを操ったり、自らシュートまで放ってしまう。グラウンドの至るところで魅惑的なクリエイティブプレーを展開するベッケンバウアーに、世界中が魅了された。ベッケンバウアーは、攻守にわたり、与えられた「自由」を完璧にこなした最初のプレーヤーであり、美しく、強いドイツサッカーの象徴になったのである。

 そして、ドイツサッカーの「栄光の70年代」がはじまった。1970年メキシコW杯の後は、ベッケンバウアーを中心に、ネッツァー、ウリ・ヘーネス、ヴィンマー、ハインケス等が展開するスーパーサッカーで、1972年ヨーロッパ選手権を制圧した。まさに、圧倒的な強さだった。このチームは勝負に強いだけではなく、芸術性という視点でも比類のない価値を生み出した。美しさと強さが高い次元でバランスしたサッカー。このチームは、ドイツサッカー史のなかでも最も美しい光を放つ存在であり、ドイツ人の誇りを支えるリソースという意味で、ドイツサッカーのアイデンティティーそのものなのだ。だからこそ今でも、ドイツサッカーが揶揄されるたびに、人々はそのチームに「逃げ込んで」いく。そこには、彼らにとって永遠の安息があるのだ。

 ドイツ代表は、その二年後に地元で開催された1974年ワールドカップでも優勝を果たす。決勝の相手は、天才ヨハン・クライフを中心としたオランダ代表。たしかに競り勝ちはしたが、サッカー内容では凌駕された。そこでドイツ人が、「1972年のチームだったら、勝負だけではなく、内容でも圧倒してくれたに違いない・・」と自らを慰めていたことは言うまでもない。

 とはいっても、この1970年代前半の三大会を通じて、勝負強いというイメージばかりが浸透していたドイツサッカーに、アートイメージも付加されたのは確かなことだ。勝負強いだけではなく、魅惑的な美しさをも併せもつというドイツサッカー。この時期、たしかに世界中でドイツサッカーに対する憧れが高まりつづけたのである。しかしその後ドイツサッカーのイメージは、ベッケンバウアーやネッツァー等、クリエイティブリーダーたちの衰えとともに、再び勝負強さだけが先行していくことになる。勝負には強いけれど、美しさに欠けるパワーサッカー・・。

 1976年のヨーロッパ選手権では、かろうじて準優勝を遂げたが、1978年アルゼンチンワールドカップでは二次リーグを突破できず帰路につくことになる。それも、フィジカル要素が目立つパワーサッカーでの敗退だったから、アイデンティティーを求めていた国民にとって最悪のワールドカップになった。

 私は、美しく強い世界最高のサッカーを展開するドイツに憧れて留学した。その1970年代の後半、ドイツサッカーのイメージが徐々に色あせていったのだ。私にとってそのプロセスは、たしかに落胆の日々ではあったが、逆にだからこそ、ドイツサッカーを「ニュートラルな視点」で観察することができるようになった時期でもあった。

 そんな経緯だったから、1980年ヨーロッパ選手権でドイツ代表が果たしたブランドイメージの復権を心から喜んだものだ。再びドイツが、美しく強いサッカーでヨーロッパの頂点に立ったのである。そこでのクリエイティブリーダーは、弱冠20歳のベルント・シュスター。世界中が、この若いアーティストに熱狂した。私も例外ではなかった。当時シュスターが、私の留学先だったケルンの最大クラブ「1.FCケルン」に所属していたこともあって、ヨーロッパ選手権の決勝が行われたイタリアまで駆けつけたものだ。

 ただ、ドイツサッカーにとって希望の星だったシュスターは、その後スペインへわたり、二度とドイツ代表チームのユニフォームに袖を通すことはなかった。そしてドイツサッカーのイメージが、再び減退の道をたどりはじめたのである。

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 「本当にオレたちのサッカーは勝負に強いだけになってしまった。たしかに勝ってはいるけれど、こんなサッカー内容じゃ、世界から目標にされたり敬意を払われるはずがない・・」。1982年スペインワールドカップ準決勝。フランスとの激闘を制し、西ドイツ代表が決勝へ駒を進めた。そのゲームを見終わったとき、友人のドイツ人コーチが、ため息混じりにそう吐き捨てた。

 この準決勝は、W杯の歴史に残るドラマチックなゲーム展開になった。相手は、後に「将軍」という称号を欲しいままにした天才ミッシェル・プラティニ率いるフランス代表。彼らは、1980年代、ヨーロッパのイメージリーダーとして君臨した才能集団である。対する西ドイツ代表は、リトバルスキー、ブライトナーなど、優れたプレーヤーは擁しているものの、1980年ヨーロッパ選手権で世界デビューを果たした世紀の天才ベルント・シュスターの穴は、たしかに目立っていた。

 手に汗握る緊迫した展開がつづく。そして、「1-1」で突入した延長前半の2分、セットプレーの場面でドイツゴール前まで上がっていたフランス守備の重鎮トレゾールが、渾身の右足ボレーでドイツゴールを陥れた。それだけではなく、その6分後には、ロシュトー、プラティニ、シス、そしてフィニッシャーになったジレスとボールをつないだフランスが、目の覚める追加点をたたき込んでしまう。それにしても見事な電光石火ゴールだった。これでフランスが、「3-1」とリードを広げる。誰もが、美しいプレーを展開するフランスの勝利を確信した瞬間だった。

 ただここから西ドイツが、これぞドイツ!という反撃に出てくる。強烈な意志に支えられた怒濤の勢いでフランスを押し込みはじめたのだ。そしてすぐに、その勢いを実際のゴールに結びつけてしまうのである。延長前半12分。交代出場したカールハインツ・ルンメニゲが、リトバルスキー、シュティーリケと交わした素晴らしいコンビネーションからゴールを奪ったのだ。これで一点差。

 その後も西ドイツの勢いは、怒りを叩きつけるように増幅しつづけた。そして延長後半の2分、ワールドカップ史に残るビューティフルゴールが生まれることになる。

 左サイドでボールをキープしたリトバルスキーが、マークする相手を巧みなドリブルで振り回して正確なクロスをファーサイドスペースへ送り込む。そこにはルーベッシュが入り込んでいた。彼は、リトバルスキーがボールを蹴る直前のタイミングで、既にそのスペースへ動いていたのだ。まさに「あうんの呼吸」。それは、二人の最終勝負イメージが明確にシンクロした瞬間だった。そしてルーベッシュは、自らが描いたイメージをなぞるようにヘディングで折り返した。そう、フランスゴールの中央ゾーンで待ち構えるクラウス・フィッシャーへ向けて。ただ、折り返されたボールは少し高すぎる。その瞬間、クラウス・フィッシャーの天才が閃いた。一瞬の判断で身体を投げ出し、オーバーヘッドキックで、見事にフランスゴールを陥れたのである。まさに起死回生の同点弾。ワールドカップ史に残るスーパーゴールだった。

 そして、ものすごいドラマの末になだれ込んだPK戦での西ドイツの勝利。そんなゲームプロセスを見ながら、世界中がその勝負強さに震撼した。ゲルマン魂・・。

 ただ、確実に結果へつなげるというドイツの勝負強いサッカーは、ある意味では、この試合が最後になったのかもしれない。その数日後の決勝でイタリアと対峙した西ドイツ代表は、「イタリアのツボ」とも呼べる鋭いカウンターによって、こっぴどく打ちのめされることになる。ロッシ、タルデリ、アルトベリと次々にゴールを決められ、惨敗を喫したのである。ゲーム終了間際にブライトナーが挙げたドイツ唯一のゴールシーンにはもの悲しささえ漂っていたものだ。決勝で西ドイツ代表が展開したサッカーは、それほどお粗末なものだった。

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 2年後(1984年)のヨーロッパ選手権。この大会は、ホストカントリーであるフランスの独壇場だった。プラティニ、ジレス、フェルナンデス、ティガナで構成する華麗な中盤は、世界中から「シャンパンサッカー」と称賛された。世界中が待ちこがれていた、美しく、強いサッカーが、今度はフランス代表によって体現されたのである。彼らは、決勝でスペインを「2-0」と一蹴してヨーロッパの頂点に立った。

 そこでの西ドイツ代表は、華麗なフランスとは対局にあるようなパワーサッカーしか展開できずにグループリーグで敗退する。結果だけではなく、内容も無様なものだった。

 そんなジリ貧の流れのなか、西ドイツサッカー連盟が決断する。選手たちの自信をとり戻し、ドイツサッカーの威信を回復させられるのは、もうフランツ・ベッケンバウアーしかいない・・。そしてドイツサッカーの「顔」であるベッケンバウアーが代表監督に就任したのである。

 選手たちにとって、それほど強力な心理バックボーンはない。何といってもベッケンバウアーは、世界中から畏敬の念をもたれていた当時の「美しく強いドイツブランド」そのものだったし、選手たちにしても、若かった当時、ベッケンバウアーに憧れてサッカーに取り組んでいたのだから。

 ドイツサッカー連盟が下した決断は正しかった。ベッケンバウアーが就任してから、すぐに代表チームに復活の兆しが感じられるようになったのだ。とはいっても、選手たちの基本的な能力が魔法のように高揚するはずもない。1986年メキシコワールドカップでは、たしかに決勝まで駒を進めはしたが、まだまだフィジカル要素の方が目立つサッカー内容というだけではなく、勝負でも、マラドーナ率いるアルゼンチンに「3-2」というスコアで涙をのむことになる。そんな彼らには、勝負には強いが、内容では、忠実さとパワーばかりが前面に押し出される「汗かきサッカー」という厳しい評価が追い打ちをかけた。創造性というポイントではまだまだ課題が山積みだったのである。

 しかしベッケンバウアーは知っていた。若手が着実に力を付けつつあることを明確に認識し、彼らの数年後の熟成を確信していたのだ。だからこそ代表監督を引き受けた。フル代表の中核になりつつあったローター・マテウス、若手代表であるオリンピックチームのユルゲン・クリンズマン、トーマス・ヘスラー、はたまたフランク・ミル等々。彼らならば、西ドイツ代表の創造性レベルを格段にアップさせられる・・。ベッケンバウアーは、そう確信していたのである。

 1988年、地元の西ドイツで開催されたヨーロッパ選手権では、成長したマテウスがキャプテンを務め、ミルとクリンズマンも、チームの中核としての役割を担うことになる。ハンブルクのフォルクスパークシュタディオンで行われたオランダとの準決勝。私も現地で観戦した。試合は、ライカールト、フリット、ファン・バステン等の優れた才能を有し、1974年ワールドカップ以来のスーパーチームとの呼び声が高かったオランダ代表との、秘術を尽くした死闘と呼ぶにふさわしいエキサイティングマッチになった。

 後半10分、マテウスがPKを決めてドイツが先制する。ただ後半29分には、ロナルド・クーマンのPKでオランダが同点に追いつく。そして試合終了間際の後半43分、これしかないというタイミングのタテパスに反応したファン・バステンが、倒れ込みながらの見事なスライディングシュートで決勝ゴールを奪った。つづく決勝では、ファン・バステンのスーパーボレーシュートなどで、当時のソ連に「2-0」と完勝し、オランダサッカー史上初めてヨーロッパの頂点に立つことになる。

 たしかに西ドイツは敗北を喫した。ただ、そこで展開したサッカーには創造的な「実」が詰まっていた。だからこそドイツ全土に、「心からの落胆」が広がった。そんな雰囲気は、それまでの10年間なかったものだ。決勝まで進出しても、「まあ勝負だけには強いからナ・・」、そしてそこで敗れれば「まあ、あんなものサ・・」といった冷めた雰囲気が支配していたのだ。ただこのヨーロッパ選手権はまったく違った。エキスパートも含め、西ドイツの人々は感じていた。やっとオレたちの代表に、美しく、強いサッカーが戻ってきた・・。

 そして、1990年イタリアワールドカップ。若手と中堅、そしてベテランが理想的に融合した「クリエイティブ」で強い西ドイツ代表が、再び、世界サッカーのなかで光を放つことになるのである。

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 予選ラウンドを、圧倒的な内容を見せつけながら二勝一分けでトップ通過した西ドイツ代表は、決勝トーナメントでは、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イングランドを倒して決勝へ駒を進めることになる。そのサッカーには、美しさも兼ね備えた勝負強さが感じられた。決勝の相手はアルゼンチン。奇しくも、1986年メキシコワールドカップ決勝と同じカードになった。ただ状況は、そのときとはガラリと違う。マラドーナは、トップフォームからほど遠く、また2-3人の主力選手がイエローカードの累積で出場停止になっていたのだ。下馬評が西ドイツ有利に傾くのも当然の成り行きだった。

 しかし、やはり決勝の雰囲気は別物。試合は、拮抗した内容で推移していった。よぎる不安。まさか前回大会の二の舞に・・。とはいっても、そのときの西ドイツ選手たちの確信レベルは最高潮に達していた。徐々に、本来のダイナミックサッカーでアルゼンチンを押し込みはじめた彼らは、後半40分というギリギリのタイミングで得たPKをブレーメが落ち着いて蹴り込み、前回大会の借りを返したのである。

 三度目のワールドチャンピオンに輝いた西ドイツは、アウゲンターラー、ブッフヴァルト、ベルトホルトらの堅実タイプに、ヘスラー、リトバルスキー、クリンズマン、フェラーといったクリエイティブな選手たちが程良くミックスするというバランスのとれた選手構成だった。その中心でチームをまとめたのが、言わずと知れたローター・マテウスである。

 そしてこのW杯を境に、また一つの時代が終わることになる。ベッケンバウアーが退任し、新たにベルティ・フォクツが代表監督に就任したのである。

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 1992年のヨーロッパ選手権は、「統一ドイツ代表」のお披露目となった。主力メンバーは、1990年ワールドカップとほぼ同じ。とはいっても、東ドイツ出身のマティアス・ザマーを筆頭に、何人かの優れた才能たちが加わったことを考えれば、総合力では「1990」を超えていたと言えるかもしれない。ただ決勝では、吹っ切れたサッカーを展開するデンマークに、いいところなく「2-0」で敗れ去ってしまう。

 淡泊な負け方。「何か」が変化しはじめている・・。

 そして、その二年後のアメリカワールドカップにおいて、その「何か」が具体的なカタチになってグラウンド上に現れてくる。準々決勝。相手は、負けるはずのないブルガリア。そこでドイツが、まさかの逆転負けを喫してしまう。マテウスの先制ゴールでリードしたドイツだったが、後半30分(ストイチコフ)、後半33分(レチコフ)と立てつづけにゴールを奪われて逆転ドラマを完遂されてしまったのだ。

 時代は、確実に変化していた。以前は、ブランドネーションに対してコンプレックスを抱いていた「二番手諸国」の選手たちが、海外でプレーすることで、その呪縛から解放されはじめたのだ。それが一つ目の「何か」だ。

 共産主義の崩壊によって、東欧諸国の選手たちが、ヨーロッパの一流リーグへ流入する。また、ボスマン判決によって欧州内での選手市場が開放され、それまで井の中の蛙だったフランスやオランダ、はたまたポルトガル等の選手たちも、イングランドやイタリア、ドイツ、スペインといった「リーグのブランドネーション」で活躍しはじめた。それに対してドイツの選手たちが海外へ出ていくことはほとんどない。そのことが、才能ある若手たちから、自国リーグでの貴重な「経験の場」を奪うというネガティブなサイクルを生んだ。それらが二つ目の「何か」である。

 たしかにドイツは、1996年のヨーロッパ選手権では、苦しみ抜いた末に優勝を遂げた。ただ内容は、彼らが対峙している「現実」を浮き彫りにしていたという意味合いの方が強かった。そして、続くフランスワールドカップ(1998年)、2000年ヨーロッパ選手権では、危惧されていたとおりの惨敗を喫することになる。

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 サッカーの基本はパスゲーム。理想は、ダイレクトのパスだけで相手ゴールへ迫るような仕掛けだ。しかし、イレギュラーするボールを足で扱うという不確実な要素が満載されたサッカーだから、イメージ通りにコトを運べるはずがない。だからこそ、個人の即興性(創造性)も効果的にミックスしなければならないのだ。それが、組織的なパスプレーと個人の勝負プレーが高次元でバランスしていなければ、本当の意味で優れたチームにはなれないといわれる所以だ。それに対してドイツサッカーは、チーム戦術的な基本発想が、組織プレー方向に引っ張られすぎているというだけではなく、選手にしても頑強なファイタータイプが多いなど、ちょっとバランスに欠けていると感じる。

 サッカーを論理で突き詰めようとするドイツ。サッカーの基本は組織パスゲームであり、ボールがないところでの規律あるプレーが何事にも優先する・・。そんなチーム戦術的ロジックは、彼らのサッカーを抜群に勝負強いものにしただけではなく、多くのラテン諸国における組織プレーの発展にもポジティブな影響を及ぼした。もちろん私も、そこから多くを学んだ。

 しかし、そんなドイツ的ロジックは、私にとって「反面教師」でもあった。私は、選手たちの創造性の発展にとって欠かせない「感性を解放するマインド」もしっかりと育成するバランス感覚が重要な意味をもつということを、ドイツにいるからこそ強く感じていたのである。いま考えると、私は、ドイツロジックの環境に身を置き、そのネガティブな側面にも目を向けることで、自然とバランス感覚が身に付いていったと思えてくる。その意味でもドイツは、私のサッカー人生にとっての「原点」なのである。

 またそこには、選手タイプのバランスという課題もある。たしかにドイツは、ネッツァーやベッケンバウアー以降でも、ベルント・シュスター、ピエール・リトバルスキー、トーマス・ヘスラー、ユルゲン・クリンズマン、ルディー・フェラー(現代表監督)、マティアス・ザマー、メーメット・ショル、ミヒャエル・バラック等に代表されるクリエイティブな選手たちも多く輩出した。しかし割合では、他国と比較して明らかに見劣りするのである。

 その背景には、ドイツサッカーの基本的な発想だけではなく、1990年代に入り、東西ドイツ統合も含む大きな社会変化が進行するなかで、子供たちが自由にサッカーを楽しめるストリートサッカーが激減してしまったという事実や、ドイツサッカー界に緊張感が欠けていたという側面もありそうだ。

 ストリートサッカーは重要なコノテーション(言外に含蓄される意味)を内包する。子供たちは、とことん楽しむために、自ら考えながら、クラブで教えられたことを「自分なり」に消化したり、プロのプレーを真似たり、独特のフェイントを「自ら」工夫したり、はたまた狡猾さを身体で覚えたりする。また自ら進んで守備にも入る。クリエイティビティーを育むために、それほど理想的なステージはない。それが激減したのである。

 また、90年代に入ってからの緊張感の欠如については、先日、世界でも高く評価されているドイツ人プロコーチ、クリストフ・ダウムと対談したなかで、彼がこんな説明をしてくれた。クリストフは、私の25年来の知己だ。「1990年のW杯優勝が分岐点だったな。1989年に壁が崩れて東西ドイツが統一しただろ。それで、旧東ドイツから優秀な選手が大挙してやってくる・・これで当分は大丈夫だ・・なんていう安易な雰囲気が充満していったんだよ。事実、ザマーやイェレミース、ヤンカーといった優れた選手がドイツ代表に名を連ねるようになったしな。それに1992年ヨーロッパ選手権では決勝まで進んだし、1996年ヨーロッパ選手権でも優勝した。ドイツサッカー界は、そんなポジティブな流れに呑み込まれて危機感を失っていったんだ」。

 ただ、1998年フランスワールドカップだけではなく、つづく2000年ヨーロッパ選手権でも惨敗を喫した彼らは、やっと覚醒した。このままでは取り返しがつかないところまで追い込まれてしまう・・。そして、90年代の半ば頃から整備が進んでいた若手育成システムを本格的に加速させるようになった。各プロクラブが主催する選手育成センターの強化だけではなく、全国300箇所に張り巡らされたタレントセレクション網の活性化にも最大限のエネルギーを注入するようになったのだ。

 またそこでは、育成段階での問題点も指摘されるようになった。特に攻撃では、組織的なパスプレーで攻め上がるというロジックサッカーが強調され過ぎることで、選手たちの創造性の発展を妨げているのではないか・・。

 このところ、ドイツサッカーコーチ連盟主催の国際会議におけるメインテーマは、タレントの育成に集中している。今年の国際会議でも、テクニックトレーニングや、組織プレーと個人勝負プレーをどのようにバランスさせていくのかというテーマを中心に活発なディベートが展開された。ロジックに偏り過ぎていたドイツ。ただ彼らもまた、再びそのバランスを見つめ直す方向へと回帰している。

 「そうなんだよ。これまでは、どうしても組織プレーを強調し過ぎる傾向があった。でも今は、それでは隠れている才能を見出して発展させるのは難しいというディスカッションが活発に行われるようになっているんだ。コーチたちのバランス感覚の重要性が見直されているということだな。そのこともあって、やっと順調に若い才能が発掘されるようになってきているんだ」。前出の現ドイツ代表コーチ、エーリッヒ・ルーテメラーが期待を込めて語っていた。

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 ドイツサッカーの光と影。いま彼らは「影」のイメージに苛まれている。もちろんそれはドイツ的なロジックに根ざしたものだから、一般的にドイツサッカーについて考えられている「つまらないパワーサッカー」というものとはニュアンスは異なるのだが・・。

 世界を代表するフットボールネーションの一つ、ドイッチュランド。いま、彼らの威信をかけたアクティビティーが急速に進展している。そう、1970年代の世界舞台で抜群の存在感を発揮した、美しさと強さが高次元でバランスした魅惑的なサッカーという「光」を取り戻すために。(了)




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